その72 女の子たちのモンスター
きまた たつしろう
 本誌先月号の特集は「警鐘を鳴らす子どもたち」。おりしも、東京中野区の中野富士見中の鹿川君の自殺。先生たちの?T葬式ごっこ?U色紙署名。そして、A君の逮捕。
 自分の学級を思い浮かべたとき、小・中学校の先生で「ドキッ」としなかった人は一人もいなかったと思う。ぼくが哀しかったのは、ある新聞に、死んだ鹿川君が保坂典人の本を持っていたと報道されていたことだ。

 内申書裁判の、”元気印”の、学校解放新聞の保坂とさえ結びつこうとしても結びつけないまま命を断っていく中学生の哀しさ。
 ぼくも先ごろ読者から「きまたの書き記す子どもの姿は暗すぎる、おおげさすぎる、色めがねで見すぎる」と言った意味の指摘を受けた。

 でも、小笠・掛川の子どもたちの姿を想うとき、鹿川君はいないかもしれないが、鹿川君の置かれた足場に生きている子は無数にいると思う。鹿川君の悲しみと全く同じ思いの子はいないかもしれないが、鹿川君の思い悩んだ哀しみの一部を共有している子は無数にいると思う。すこしひかえめな書き方だがこの位は言える。

 さて、今月号は先月号の続きで、小学校高学年の女の子の話。
つい先日はバレンタインデーだった。ぼくももらった義理チョコ。その日、紙袋をさげて学校にお出ましになって、休み時間のたんびに配り歩いた女の子もいるし、ひとつもわけなかった子もいる。誰が誰にやったとか、一番たくさんもらったのは誰とか、一番配ったのは……などは約束で書けない。

 ただ、流行にのせられて右往左往している女の子たちを見ていると、ほほえましいのはこれっぽっちで、商売にあやつられているあわれさの方が多い。ぼくの見える範囲でもこれだけのことがおこっている。これなら日本中で四、五百億円のチョコは簡単に売れると思う。あやつられている女の子たちには毒も害も無いが、こんな風潮がこれからも続いていくならば、女性は確実に男の附属物になっていく。

 気になる女の子の姿をいくつか。
その一、マンガ字(変体少女文学)をいっしょうけんめいに練習している女の子。
たしかにマンガ字は横書き日本字の時は便利で合理的に思う時もある。でも、必死になって練習しているのを見ると、つい首をひねってしまう。

その二、学用品のファンシー化。
筆入れなんか、大人の想像するような形のものを持っているの子なんか一人もいない。余分にもうひとつ袋を持っていて、カラーマーカーみたいなものがしこたま入っている。下じきには、「江尻君命」と黒々と書かれている。わかるかな。

その三、東海テレビの「夕やけニャンニャン」を毎日じっと観ている子。
ちょっと下火だが、女子プロに興奮している子。アスカだのコクショウだのぐちゃぐちゃさわいでいる子。

こんなことを書いたことが受け持ちの女の子にわかると、「先生。フンルイ、オクレテル。女の子の気持ちワカッテナイ」と言われるにきまっている。

ああ…。