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いじめの問題が臨教審だの国会だので、また、新聞やテレビなどのマスコミで盛んにとりあげられている。昔から「いじめっ子」や「いじめられやすい子」はいた。ぼくらの世代にも、どちらかの側にそった思い出がある。しかし、今のいじめの問題はその頃の様相とは全然違う。
いまのいじめはどうなんだろうか。いじめる側にかかわって、残忍で、しつこく、きたなく、寒々としたものがある。
そのひとまわり外をかこんでいたグループが、とめたりする役目を果たさないで、こわさから、隠ぺいしたり加勢したりする側にまわることも多い。また、大騒ぎがすぎて必要以上になってしまっている面もある。簡単に言えば、なんでもかんでも、いじめにしてしまうこともある。
いままで何度も書いているが、最大の責任は、今の世の中をつくりだして、維持している大人たちである。文部省も日教組もぼくも、父母も、マスコミも、みんな悪い。もちろん、責任の重さに軽重はある。子どもたちの世界が「いじめ世界」だとするならば、その世界を維持管理している責任者の一人にぼくも入る。支えているお母さんたちもいる。
さて、ぼくの教室の六年生の子どもたち。この年だけでも思いめぐらせば心痛い話はたくさんある。誰々にたたかれただの、悪口を言われただの、だれかにものをとられたとか、かくされたとか、ノートや教科書に落書きされた、遊んでくれない、いじわるされたとか、ノートをやぶったなどと次々と言ってくる。そのたびに、ぼくはドキッとしながら詳しく聞きだす。
ときには、男の子が成長してきて女の子に関心を持っての話もある。言いつけにきた子が逆におかしいこともある。
まあいそがしい。今のところは、おおごとにならないですんでいる。でも、「いじめ」のことを意識すると薄氷をふむ思いもある。
それでは子どもたちの「すきな友だち」はどんな人か。アンケートをとってみた。
男の子はこんなイメージである。
・遊んでくれる。 ・いろいろくれる。 ・やさしい。・おこらない。
・いっしょに考えてくれる。 ・わらっている。・おもしろい。
多くは「……してくれる」という答えである。
女の子はこんなイメージである。
・やさしい。 ・遊んでくれる。 ・声をかけて話しかけてくれる。
・いっしょになかよくしてくれる。 ・いっしょにいてくれる。 ・いっしょに帰ってくれる。・話し相手になってくれる。 ・たのしい人、おもしろい人。 ・見ていて安心できる人。
これまた、「……してくれる」人なのである。
自分の世界に安住して、その世界を犯されるのはいやだし、かえようとも思わない。そして、常に受身で、しかも、自分自身の世界にふみこんでこないで肯定してくれた上で、「……してくれる」人を望んでいる。
自分に要求されることがあれば、「めんどくさい」「いや」。このイメージにあわない友だちは、「きらい」。だから「きらい」な子が自分に向かって起こすアクションはすべて「いや」。なのである。子どもたちが「いや」なことは、だれかに「たのんで」、だれか自分以外の力でとりのぞいてもらおうとする。
これは甘えの構造である。
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