その63 真実は見抜けるのか
きまた たつしろう
 ある日の授業中、校舎の前の道路を救急車が通った。ある学校の先生が、「子どもたちが大喜びした」と嘆いていたことが思いだされた。これは、子どもの育ち方のおかしさを見ぬいた大人がいた、ということだからいい。

 家に帰って新聞を読んでいたら、投書欄にこんなことが載っていた。……
・電車の席に土だらけの靴で登って窓の外をのぞき、さらにその靴がとなりの女の人の服について土でよごれた。よごされた女の人が、がまんできなくて注意した。そしたら、女の子のお母さんらしい人が「こわいおばさんだこと。向こうへいきましょう!」と、あてつけがましく話しをしながら席を立って行った。
……という話しだ。

 いかにもありそうな話しだ。これは、子どもの育ち方のおかしさを見ぬけない大人の例どころか、大人が子どもをゆがめて育てている例だ。いかにもありそうなことだから、なおさらおそろしい。

 ぼく自身も反省しつつ、先生方にも首をかしげることがある。それは何年か前に、建ったばかりの新しい校舎の学校に赴任した時の話しである。校舎は何もかもマッサラで気持ちがいい。ある日、ある人(!)が提案をしてきた。

「階段の手すりがよごれるから、子どもたちにさわらせないようにしてください。」というものであった。その時は、「階段の手すりとは何のためにつけてあるのか」という大議論の末に、「さわってもよい」ことになったが、あの時に、それはおかしいという人がいなければ、子どもたちに手すりをさわらせない持たせないことになっていってしまったにちがいない。

 先月号の本誌78%の投書欄に、市内のある中学校の給食に出る牛乳ビンのふたを生徒たちが家に持って行く話しがでている。

 その投書の主は別のことを憤っているのだが、ぼくは、「牛乳のふたを生徒も教員も全員学校では捨てないで家に持って行く」ということにびっくりした。おどろいた。あきれた。正直に考えて、家に持っていく、家のゴミ箱にすてる、指定ゴミ袋に入って、ゴミ収集所に出される、市の車がとりにくる、東山口のゴミ焼きで焼かれる。あほくさい。なんで学校で処理しないのか。なんだか落語みたいだ。

 もうひとつのあほらしいはなし。

 四月二十日の毎日新聞朝刊に、日米貿易摩擦にかかわる通信末端機器の技術基準の見直しについての記事が一面トップに載っていた。郵政省が米国の要求に押しきられて、基準を大幅に緩和することに合意したということだが、その記事のなかに、

「同省は、技術基準を緩和したことで、聞こえにくい電話機が出回る可能性もあるが、これからは消費者が独自の責任で製品を選んでほしいと呼びかけている」とか、「多少聞きづらい電話機でも販売可能」、「通話がひずんだ電話機でもOK」などと書いてある。

あほらしい。あいた口がふさがらない。おまけに新聞自身もそれを批判していない。お役所もマスコミもすくいようがない。みっともない。

ぼくも、「真実を見ぬく目」をいっそうみがきたいと思う。