その62 新しい気持ちではりきる
きまた たつしろう
 新学期、学校が出発して三週間たった。春は、もうとっくに来ている。葉桜の季節、どの教室でも受持ちの先生と子どもたちは少しずつ波長があいはじめていく。

 三月二十四日のどの新聞にも、「県下教職員の異動」という記事が特集された。静岡県の小、中、高の先生たちのなまえが数千人も載っている。先生方自身でさえ、その大部分は、三月二十日の卒業式の日まで知らなかった自分の新任地が印刷されている。ぼくの経験でいくと、新聞で自分の新任地を知った人もいるはずだ。

 あわただしい日々。そして旬日。見も知らぬ地の、見も知らぬ建物の中で、子どもたちとの運命的な出会い。この「出会い」という言葉が、このときばかりは宗教的にさえ感じられる。この頃では、先生も子どもたちを選ぶことはできない。

 今年のぼくは幸せなことに、望んでいた子どもたちと、望んでいた土地の望んでいた建物の、望んでいた教室で、気持ちよく合うことができた。そんなぼくの気持ちとはうらはらに、子どもたちや、父母の中には、「きまた先生はいやだやぁ。他の先生になってもらいたいやぁ。」と思っていたり感じていたりした人もいたかもしれないが、ぼく自身は、「うれしい」。

 先生方の間では、同じ子どもたちを続けて受け持つことを、「持ち上がり」と言うが、近ごろでは、持ち上がりも二年だけで、三年目も同じなどということはない。聞くところによると、昔は、六年間同じということもあったという。

 持ち上がりは、子どもたちや父母にとっては新鮮さに欠けるかもしれないが、スタートダッシュはちがう。子どもたちと波長が合うのに何ヶ月もかかるから、その分持ち上がりはその分得をする。子どもたちや父母の立場からすれば、「今年もはずれた。おなじ先生か」、「また、あの先生か、いやだね」ということにもなる場合もあるのだが。

 先生や子どもたちにとっては、四月は、新年をむかえるお正月みたいなものだから、どの先生もはりきる。ぼくももちろんだ。

 今年のぼくの学校は、校長先生も替わったし、そのほかの何人もの先生も替わって、毎年のことながら、ムードが一新した。そしてはりきる。この気持ちを一年持ち続けたいと思う。六年生。夢も希望も大きい。始業式のあと教室に入っていったら、読んでいた「少年ジャンプ」を急いで机の中にしまった子がいた。こういうことは、持ち上がり学級の余裕でもあるし欠点でもある。さっき、子どもたちは、新しくやってきた先生たちと合ったばかりである。そのスタイルなどから、子どもたちは本能的にいろいろなことを感じる。

「こんどの受持ちはきっと、きまた先生だな」と思っていても、新しい先生たちを見ているうちに、ほのかな感情がわいてくる。受持ちの発表を聞きながら、
「もしかして、もしかしたら」と思う。
そして、やっぱり。そんな緊張のあとのけだるさ。それでも先生が来れば、新しい気持ちになる。ぼくもはりきりたい。

がんばるよ。