その61 別れの時期に思うこと
きまた たつしろう
 給食の時間に用事があって、外に出ていて、ちょっとおそくなって教室に帰ってくると、ぼくの湯呑みにお茶が注いであって、箸までちゃんとそろえてあった。座って食べはじめようとすると、ぼくのとなりの女の子が、「先生、悪かったけど、先にいただいてたよ。」と言う。ぼくは思わず「どうぞどうぞ」と口につい出てしまう。

 時には反対に、給食も用意してくれなくて、「先生のは?」と聞くと、「ああ、そうだっけ!」と言ってしぶしぶ取りにいく子もいる。また、お弁当の日に、カラフルな弁当に目がいってのぞきこむと、「先生、あげようか。」と言う子もあるし、「取っちゃいかんに。」とか、「先生、欲しいだら。」と言われる場合もある。後者の場合など、三十才も年が違うことは承知していても、ぼくのこころはむかむかとしてくる。

 どうしてこんな違いが出てくるのだろうか。一番目は、ぼくと子どもとの関係。担任を子どもたちが思ってくれているかどうか(好きかどうか)でのちがいがあるのだろう。二番目は、家庭のしつけとか、今までのその子の生きてきた歴史とかのちがいだろう。

 遠足の時などに、お菓子を食べている子の近くにいくと、「先生、ほしいだら」とか「とっちゃいかんに」、などと言われたり、「先生は、子どもからお菓子もらうつもりで持ってこないだら」、などと言われたりすると、ぞっとするし、たまらなくさみしくなる。

 『教育は社会現象』だから、その子のまわりのどこかに、そういう態度を育ててしまった原因があるのにちがいない。前にも書いたが、一年生の女の子の頭をなでてやったら「エッチ」と言われてしまうのも、その子をそう育てた社会があるのだ。

 三月も後少し、数日で、子どもたちと別れる。この子たちと四月から持ち上がりで、いっしょにやれるかどうかの保障はないのがつらい。
 この一年間も、今までのように、子どもたちの暗い面ばかりここに書き続けてきた。ほんとうは、明るい話しばかり書き続けたいのである。
 でも、そうすることはうそになる。この都会からはなれた田舎のような地方にも、確実に子どもたちの生活のくずれや荒れは、ひたひたと押し寄せてきている。

 このようになってきたことは、子どもたちにはまったく責任はなく、その子のとりまく家庭や学校や社会のせいなのだが、事は深刻だ。

 いまのようなマスコミが発達してきた情報社会では、都会と田舎の区別なしに、流行と同じように、全国同時なのである。しかも、「キン肉マン」の例のように、年令や男女に関係ない。

 ことさらさみしくて困るのは、子どもたちとくらす、先生たちが疲れはじめていることだ。授業中に勝手に出歩く小学生や、シンナーをすう小学生などが出てくると、経験の少ない若い先生や、やさしい先生では手に負えなくなる。事実、「もう疲れた」「やる気がない」と言ってやめていく先生も、ここ数年多くなってきている。「高学年はたいへんでいやだ」とか、「低学年を受け持つとほっとする」などという話しも耳にしだした。

何をしたらいいのか。
父母と先生とが、ほんとうの教育改革を考える時がきているように思う。