その59 読者の投書に答える
きまた たつしろう
 水垂の禄寿斉さん、「あれも言いたい、これもイイたい!!」欄への投書、読ませていただきました。この「教室風景」執筆で駄文ばかり列ね続けていて、心苦しく思っている時だけに、ほんとうにありがたく思いました。一人だけでも、読んでくださっている方がいるということがわかる(「反響がある」)ことは、うれしいことです。

 さて、少しばかりぼくの考えやら返事みたいなことやらを、誌上をおかりして書きたいと思います。

 「他の方から見れば、又ちがった教室風景が現れると存じます。時々は、異なった目でみた教室風景を取り入れてください。」(投書より)

これは、全くその通りだとおもいます。ぼくも賛成です。78%KAKEGAWAは、いわゆるタウン誌ですから、制約もあるでしょうが、ぼくもおおいに編集室に望みたいことです。

 ただし、ぼくの予想では(いや、いろんな先生が言っていることや書いたものを見ると、予想という言葉のもつイメージ以上の確かさで)たくさんの先生方に登場してもらって、教室の「風景」を語ってもらえばもらうほど、ぼくが書いている以上の「病んでいる子どもたちの、寒々としたすがた」があきらかにされることと思います。

 禄寿斉さんは、ぼくの出しつづけてきた子どもたちの「風景」が、「教室というもの、現代っ子はこんなものかと世間に思わせてしまいます」とおっしゃっています。

 しかし、「教室風景」の著者のぼくは、現に掛川の空の下で、教師として生きているのですから、風景を語るとき、事実を語るとき、すこしおさえたり、事実関係をそこなわないようにある意味での脚色をしたりせざるをえないからです。

 受持ちのお母さんが読んで、「これはだれのことかしら」といろいろと子どもたちを詮索しようとしたり、「先生に書かれると困るから気をつけなよ」と、子どもに注意したりしたら、ぼくの教室での命を育てる仕事のじゃまになるからです。

 ですから、なるべく、どこの学校の話しかわからないようにしたりもしています。すると、病んでいる子どもたちの姿を、なるく見せてしがいがちになります。ですから、たくさんの先生たちに登場してもらえば、「教室というもの、現代っ子というもの」が、こんなものかと世間に思わせてしまうどころか、思い込んでもらえると思うのです。

 「真の子供像」という言葉ですが、これは、ぼくにとってむつかしい。なにしろ、ぼくにあたえられている本欄の字数は決められています。それに、これは教育雑誌ではありません。いわゆる、街のタウン誌です。(だからいいとも思うのですが。)

 ぼくは、ぼくの目と心で(「きまたイデオロギー」という大それた名をつけてくれましたが、ぼくはあまり好みません。)これらの制約の中で、「子どもの一面」や「子どもの風景」を随筆的に知らせているだけです。

「真の子供像」などを書き続けているのではありません。ご不満でしょうが、それはご承知ください。

禄寿斉さん、ありがとうございました。