その58 子ども側の常識で考える
きまた たつしろう
「常識」
「人間はかくの如く生きねばならぬ」
「人生はすべからくあらねば」
 個人が自分を律しながら生きているのは美しくていい。それが、みんなの「常識」となったときはこわい。時として「非常識」となる。それを説明するには、小笠・掛川地方の子どもたちの服装がわかりやすい。

 小学生は登下校でも教室でも体育のシャツと半ズボンである。なかには真冬でもランニングシャツだけの子がいる。小学六年生位の女の子だと、身長が一六〇センチ以上で、体重が六〇キロもあって、そのあたりの娘さん以上だったりする。そんな子が半そで半ズボンで町の通りを歩いている。「常識」でならされている目には別にどうこうないが、「常識」でない地方の若い男から見れば、ムラムラとこないとは言えない。

 そんな子どもたちが、家庭科の時間に、子どもらしい外出の服装などと教えてもらっている。もちろん、実践はできない。子ども自身も多くの場合、矛盾をもたない。「がんばる」と決意して、年中、半そで半ズボンですごした子も、中学に行けば四月から汗を流しながら、長そで長ズボンの学生服になる。

 ぼく自身もどっぷりつかってしまって、改革にのりだそうともしないし、かえってその中で生き生きとしてしまって、「去年よりも一日だけ長く、薄着ですごそう」などと演説したりしている。多分、お母さんたちに「自由な服装にしたらどうですか」と提案したら(提案したこともあるのだが)「お金がかかりすぎる」「子どもがはでになる」などと、これまた一蹴されるだろう。

「常識」がどこかで狂い、ひとり歩きし、「非常識」になってしまっている。

 この前、『仮説実験授業のABC』という本を読みながら、心の洗われる思いをし、自分のやっていることを考え直さなければと思った。この本の著者の板倉聖宣さんは、国立教育研究所の所員で、こういう人が常識はずれのことを言うのも常識ではない(もっとも、近ごろはやりの中曽根さんのやっている臨時教育審議会の委員の中には、教育学者や日本最大の日教組の代表や、なにより父母の代表がはいっていない。これなどは、考えてみなくとも最大の常識はずれだ。)。

板倉聖宣さん曰く------

「『選択肢つきの○×式のペーパーテストはいけない、自由筆記式のテストにしなさい』というひとがいますが、私は、このことについては非常に懐疑的です。」「選択肢がない問題というのは、問題の提出者が権力を持っている場合には、非常に悪弊をおよぼす恐れがあるのです。」
「あれは、教育の民主化のもとに作られたものだ、というのが基本的な性格です。」
「授業というものの一番基本的な本質はですね、『間違え方を教えること』だ、あるいは『進み方を教えること』だ、と思っています。」
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教師であるぼくにとっては、脳天をつきやぶられる思いである。

子どもの側の常識で生きていく必要がある。