その54 ゆとりの時間の授業とは
きまた たつしろう
 「だまってそうじ」というのはちょっとおかしいのじゃないか、と先月号に書いた。思わぬところから援軍がきた。八月の中旬に、市の教育委員会主催の講演会があった。千葉大学の坂本先生が、人格形成とか生徒指導についてのことで講演した。

 この坂本先生というのは、中央教育審議会(中教審)の委員もされていて、現在の文部省から出されるいろいろな答申の人格形成とか生徒指導の部分は、大部分が坂本先生の考えで書かれているという。

 その坂本先生が、現在の各地で行われている「だまってそうじ」という方法は、現在の目的や方法で行われているかぎりにおいては、「くだらない」「志が低い」とおっしゃった。

 これにはびっくりした。文部省の教育施策に重要な参画をしているという人がこう言うのだ。なぜだめかというと、「自己決定」という手順がないからだという。
 その先生が指導されていた長野県の中学校では、同じ、「だまってそうじ」でも、そうじをする場所も、子どもたちに好き勝手に選ばせるのだという。

 さらにその上、そうじをやるかやらないかの自由も、認めるのだという。これなら、「自己決定」が入ってくるから、「だまってそうじ」も教育的になるのだという。

 びっくりした、おどろいた。文部省がこれほど進んでいるとは知らなかった。

 今、どこの学校でも「ゆとりの時間」というのがある。数年前の指導要領の改訂で、小学校の高学年の場合、教科の時間が三時間位へった。そのへった三時間を「ゆとりの時間」と称して、米つくりだの、芋つくりだの、草とりだの、そうじだのというようなものに使っている。

 ぼくなどは、前からそのゆとりの時間を、「文部省はそんなふうに使えとはいっていない」と主張しているが、認めてもらえない。それで、先生方は、昔以上にゆとりをなくして、いそがしくなっている。低学年は前に比べて時間がへったわけではないので、全校で行事をやるとなるともっといそがしくなる。一年生の四月に、一日六時間も授業をやるということさえでてくる。ゆとりなんてこれっぽっちもない。

 こういう動きに対して、坂本先生は、
「そうじゃないのです」「まちがっています」と、はっきりおっしゃつた。
「ゆとりの時間」は、教科の中で、授業の中で、子どもたちに、今まで以上に活動させるためにつくったのだという。
 四、五年前の文部省の教科調査官とかいう人の発言とは少しのちがいはあるが、まあ、おおむねにかよっている。

 だとすると、小笠掛川地区の小学校は、文部省の方針に反して、「ゆとりの時間」を使っていることになる。文部省を出る時にはいいことでも、県教育委員会、中部事務所などと通ってくるうちに、なんだかへんになってくる。

こんなことは、他にもありそうだ。

制服も、「自己決定」が入っていないからよくないのだと言う。
私服では、ガクランを着られない。
とにかく、坂本先生の話しを聞いて、多いに意を強くした。