その53 規則のひとり歩き
きまた たつしろう
 ある会合で、「今の子どもたちのくずれ、いじめ、非行、登校拒否などのさまざまな問題を解決するには、一度教師たちがすべての“よかれと思ってやっていること”を根本から洗いなおしてみて、今とまったくちがう教育をうち立てていかないかぎりはだめなのではないか」という意見がでた。ぼくも、よくわからないところもあるが、近頃しきりにそれを考える。

 友人の先生とこんな議論をした。
「だまってそうじをする」ということが中学校から小学校にひろまってきて、数年になる。だまってそうじをするというのは、仕事もはやくなるし、きれいにもなっていいという。おしゃべりをすれば、手も動かなくなるし、いたずらも多くなる。というのである。だけど、どっかがおかしい。教育の世界の中にはこういうことがいっぱいある。

 ろうかをとぶ(はしる)と、けがが多くなるので、ろうかはとばない。だとか、階段をおりるときに、前にいる子をおしたりするとあぶないので、手を後ろや前で組む。だとか、特別教室に移動するときは組のみんなで並んで行く。などなど。

 みんな善意で、よかれと思ってはじまる。子どもがにくらしいので、いじめてやろうなどということではじまることなんてひとつもない。

 友人の先生と、先ほどの議論の結果、「だまってそうじ」というのはなんだかおかしいということでは一致した。子どもたちに、そうじを早くきれいに協力的にやりとげさせるために、だまらせるというのなら、これはあまりにも貧しい発想である。

 ある学校で、だまって草とりしていた女の子が、季節はずれの花を見つけて思わず、「あれ、この花今咲いているの」と声に出して感動した。そうしたら、そのこの班は草とりの評価がペケになった。

 こういうことは例外の例外かもしれないが、規則がひとり歩きして、美しい心を育てるべき場所がそれを押さえつける場所になっている。例外を無限に許すところが学校であるべきだ。それもいいね、それもいいね。と限りなくほめていくところが学校だ。今の学校も、ぼくの教室も、どんどんそこから遠のいていく。

 友人の先生に「だいたい、子どもにそうじをやらせることだって、正しいのかどうか考えなおしてみる必要がある。」と言ったら、ここでは一致できなかった。

 その先生は、「自分たちのくらしている教室だから、自分たち、つまり子どもたち自身がそうじをするのは当然で必要だ。」というのだ。

 ぼくは、予算とその他の施策がいきとどいたら、ここも疑ってみたい。大学生は教室をそうじしない。国によっては子どもがそうじしない国もある。小学生はそうじをして、大学生はそうじをなぜしなくてもよいのか。考えていきたい。

 とにかく、このごろ、よかれと思ってやるのだろうが、規則がひとり歩きして極端にはしりすぎる。例外をみとめると、しめしがつかないということで、異常になっている。教育のあたたかさがどんどんなくなってきている。

ひょっとしたら、世の中もそれを望んではいないか。