その52 続--いいわけ病
きまた たつしろう
 先月号の「教室風景」の“いいわけ病”(「だって」を連発する子)について、市内弥生町の二十九才の青年の“いじめられっ子”さんから次のような手紙をいただいた。

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 『六月号の教室風景を読んで自分の小学生時代を思い出しました。
むだ話しをする、そうじをさぼる、先生の話しを聞かない……。
事あるたびにやたらに叱られ“だって”を連発し、
“いいわけをするな”と聞いてもらえませんでした。
自分の非を認めたくないのも確かですが、要領のよい子がいたのも事実。
先生の前では、誰とでも仲良く、そうじもやる。いない時は遊びほうける。
そんな子が、いわゆる先生の“ミコ”がよくて、泣いてくやしんだ事もあります。
“なんでオレだけ……”
いいわけをする子も心がくさるかもしれません。
 しかし、影でさぼる子、いじめをうける子や、それを知ってて、
立場が弱い子の件のみを告げ口する子は大丈夫でしょうか。
先生に叱られることはありませんから、ある意味では危険だと思いますが。』
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“いじめられっ子”さんのこの手紙を読むまでもなく、ぼくは先月号の原稿を編集室にわたした直後から心が痛かった。「どこか傲慢だ」と我ながら思った。それはなぜなのかわからなかった。たしかに“いじめられっ子”さんの書いてくれたようなことはよくある。今の世の中、うまく泳ぎまわる子が多すぎる。そんな子が得するようにしくまれている。親も先生も、そういう子を育てている。

 さらには、「それはまちがっている」と思っていても、それは認められないような世の中のしくみになっている。それはたしかである。そのことにも怒りをかきたてたい。

“だって”を連発する子についての書きたかったことは、そのこととはビミョウにビミョウにビミョウにちがう。(しかし、このことを書いていくことは、“いじめられっ子”さんの告発している事実をおさえこんでいくということになってしまう、ということも事実であると認める。一〇〇%認める。これもつらい。)

 ぼくが、本能的に心痛かったのは、「だって」と子どもが連発する時は、大人が選択の道をひとつしか認めていない時なのではないかと思ったからである。

「はい。」 「そうです。」 「ちがいます。」 「やります。」 「まってください。」 「あとにしてください。」「いやです。」。

そのうちのどんな返事でも、安心して言える雰囲気であったなら、子どもは“だって”と言うだろうか。

 あとの否定の返事をゆるさない。「はい」以外の返事をゆるさない。そんな雰囲気がつくられているから、だから”だって”を連発するのではなのいか。 

「早く食べなさい」と言うから「だって」が返ってくる。
「こちらを向きなさい」と言うから「だって」が返ってくる。
そう思って、心痛かったのである。