その50 変わる子どもと変わらない制度
きまた たつしろう
 おそい春。桃と桜とつくしとたんぽぽとれんげと、こぶし。それに、鯉のぼりまでが一緒の春。まだあった。いぬふぐりの群落。こんなにたくさんのものが同時の春なんて、ぼくの人生にはなかった。

 新学期がはじまって十日。今日は「わらび座」の宣伝カーに同乗して、掛川市内を一日かけて一巡して、めずらしいはじめての春を満喫した。公園の桜は満開で、風のたびにほんのすこし花びらがまっていた。次の日曜あたりからほんものの「わらび」が出てくるだろう。なんだか随筆風になってきた。「教室風景」を書かなければならない。

 今年は、出来上がったばかりの体育館での入学式。年々子どもたちの態度は進歩していくようには見える。体も大きい。なのになぜ、ぐんにゃり病や下向き病や、かげひなた病、いじめ病などのいやらしい病気が、教室中を、まもなくおおうのだろうか。

 今年のぼくは五年生。ぼくの本当の気持ちはいままでの二年生を追っかけていきたかったが、職員室の人的構成などを考え納得した。このぼくも、数年前の自分とずいぶん変わってきた。このことは、やっぱり悲しむべきことだろう。

 今年の受持ち発表の始業式はびっくりした。ざわついていて出発の感動なんてさらさらなかった。子ども集団のかもしだすダイナミックなタイミング(?)の悪さか。

 教室に入っていく。今年で一年いた学校なので顔見知りの子どもも多いが、緊張していたのか、戸を閉め忘れた。そしたら、女の子が一人さっと席を立って閉めてくれた。うれしかった。心がぽっとあたたまった。

 先ほどの始業式のざわつきの感想を子どもたちに話した。人生の節々の感動のなさと、「葬式で笑う人」のたとえでまとめてみたが、子どもたちにはわかってくれたかどうか。

 あたらしい子どもたちとの初顔合わせもおわり「去年よりはましな仕事ができるかなあ」などと思いながら家路についた。

 朝から気になっていた記事がのっている新聞に目を通していた。それは大きく出てる「臨教審」(いわゆる教育臨調)の記事。読んでいてだんだん腹が立ってきた。中曽根首相はどこかおかしい。

 今、父母や市民が望んでいるのは、「荒廃した教育環境の中に追い込まれて苦しんでいる子どもや教師や親」をどうするか、なんとかしてほしいということなのだ。荒れている子どもや中学校、おかしくなってしまった入試を、はやくなんとかしたいということなのだ。教員の免許状をこまかく区切り直したり、とりにくくしたり、六三制を変えたりしてほしいということではない。大企業の社長さんたちのように、「企業の発展のための役立つ人間をつくれ」ということでもない。校内暴力に代表される学校の子どもを、なんとかしてほしいということなのだ。

 法律は出来たが、四十人学級などはさらさら守るつもりはない。受持ちの子どもが少なくなれば先生の目がとどいて子どもが良くなる。そんなあたりまえのことに手をつけないで、教育を改革できないのはわかりきったことだ。

「中曽根さんが教育改革に熱心になればなるほど教育がだめになる」とは、本田技研会長の本田宗一郎氏の言葉。

政府が政治が、子どもの教育に口を出せば出すほど、教育が子どもがどんどんだめになっていく。