その49 子どもの三つの姿
きまた たつしろう
 いつもならとっくに訪れている春が、今年はいつまでまってもまだ来ない。しもやけの足が疼いたままで、しあさっては卒業式だ。こんな春の遅い年もこまったものだ。

 きのうは、卒業していく六年生が、ちょっと古くさい名だが、「謝恩会」を開いて先生方を招待してくれた。家庭科の実習もかねて、サンドイッチとおむすびとみそ汁の昼ごはん。おいしかった。

 六年という学年からは縁遠い二年生担任のぼくに、“恩”を感じてくれたかどうかは別にして、子どもたちが、自分たちの力で準備してくれる会はいつも見ていて楽しく、心がなごむ。

 今回の謝恩会の中で、先生のまねをしてだれか当てるクイズもあった。これがとくに一番おもしろかった。子どもの目はするどく、にごっていない。実によく先生方のとくちょうをつかんでいて、腹が痛くなるほど笑った。

 この“ぼく”も登場した。“ぼく”が舞台に登場した瞬間、子どもたちも先生も一斉に手をあげてわかってしまった。ぶしょったい長い髪を、先日床屋でかったら、小さい子どもたちは「きれいにしたね」とほめてくれたが、高学年の女の子たちは「かっこ悪い、前の方がいいやあ」といった具合で、ムードがちがうのである。その“ぼく”が髪をかきあげるくせが、我ながらおもしろかった。

 こんな子どもたちの輪の中で楽しみながら、ふっと、「どうしてこの子たちの何人かが、あと一、二年のうちに大人の手でつつめないほど荒れていくのだろう」と思った。くったくなく楽しんでいる子どもの姿も、かげでみにくく暮らす姿も、どちらも真実なのだ。

 よく、子どもは三つの姿があるという。

・友だちの持ち物がなくなる。ある子が盗ったのだ。
友だちがたまたま見ていてそのことを先生に知らせる。
先生がその子をよんで論そうとする。
しかしその子はあっけらかんとして否定する。
どんなに聞いても、絶対にやっていないという。
先生も心の中で、「この子ではないのか」と思い込むほどの否定のしかたをする。演技などというものを超えた態度を示す。
これが第一の姿。

・先生は念のためと思って、証拠を出して追求する。
そのとたん、よよと泣きくずれて、全身であやまりながら許しをこう。その姿は、これまた真に迫っていて、
「これでこの子は立ち直るだろう」と信じる。
これが第二の姿。

・「これからは、こんなことしちゃだめだよ」と先生はほっとしてこの子を帰す。子どもは部屋を出て行く。すると廊下から、その子の声が聞こえてくる。ドスのきいた声で、「ちくしょう!あいつ、チクリゃあがったな。おぼえてろ。」。
これが第三の姿だ。

どの子にも、この三つの姿がある。そして、そのどれもが「真実」なのだ。親やぼくらは、このどれかだけを信じようとする。
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