その46 あたえられる文化
きまた たつしろう
 新しい年がはじまった。「めでたさ」がどの位になるのかさっぱりわからないが、せめて中位かそれ以上で、「おらが春」を迎えたいと思っている。

 子どもたちの“春”は、夏でも冬でも秋でもかわりばえしない。宿題でお正月の遊びをやらされなければ?T春?Uだかなんだかわからない。お年玉以外はいつもの休みとさっぱりかわらないのである。

 さて、話題はがらっとかわるが、いま巷では「子供達を責めないで」という歌が流行っているのだという。“八三年最大のコミックソングのヒット曲”だとか、“パロディ満載の抱腹絶倒のユーモアアルバム”だとかいうことでもてはやされているという。歌っている本人は、子どもたちへの愛の歌だの、母親たちへの子どもの教育を考え直してもらう呼びかけの歌だとかいっているという。そして、上司や上役へのうっぷんをはらすための替え歌としても、もてはやされているのだという。

 それならと、聞いてみた。
伊武雅刀さんという方が歌っているのだが、どなっているばかりいるだけで何を言っているのかさっぱりわからない。これが流行って多くの人に受け入れられているというのだが、よくもわるくもこれがわからないぼくはつくづくオジンになったと思った。

 そこで、二年生の子どもたちに聞かせて感想を書いてもらうことにした。さっそく音楽の先生に事情を説明してテープにうつしてもらった。「なに、あれ、歌かね。」ということで、ぼくはほっとした。もっとも、この音楽の先生も、ぼくと同じで、オクレテいるのかもしれない。

 子どもたちは、表面的には、ずいぶんと楽しそうに、わらいながら、のって、にこにこして聞いていた。テープが終わったとたん、
「どナウイやい」だの、「ちきしょうおこったぞ」などと叫んだ子がいた。
その反応が印象的だった。結局、子どもたちは、この歌のフィーリングにのって、同じ舞台の上で考えているのだ。少なくとも、ぼくの感覚とは違う。ある子は、
「わたしは子どもがきらいだあ、とゆったところがおもしろかったです。なんでかとゆうと、大きな声でゆったからです。」という。

 このごろのマスコミ文化は、明らかに一時代前とは異質である。雑誌やテレビマンガひとつをとっても、小さい子には「キン肉マン」、中学の女の子には「ポップティーン」や「ギャルズライフ」。原色すぎて短絡的で、ぼくはとてもついていけない。

この曲もまたそうなのかもしれない。「この音がくをきいていやです。よっぱらったひとは、よくこんなうた、うたえるね。」とか、「ぼくは、ほんとうにおこれました。わたしは子どもがきらいだあ、といったことがいちばんきらいです。」など、このように、子どもたちは、「わたしは子どもがきらいだ」と歌のなかで絶叫するところは、たしかに反発する。でも、「そんなにこどもの悪口いわないでよ。」とか、「自分たちおとなだって、前は子どもだったでしょ」と反論するだけだ。
それ以上の武器をまだ手に入れていない。

「子どもがきらいだがしぞうかけんではやったら、おとなたちにおいだされてしまう。」とおそれるだけだ。

文化とは何か。
かなしいものだ。