その45 せいじ、きょうし、子ども
きまた たつしろう
 いつも話題にするが、子どもたちは荒れている。病んでいる。当然のこととして、荒れている子どもたち、病んでいる子どもたちを生み出したのは、学校や家庭を中心とにした社会である。責任の中心をどこにもとめるかは、人によって考えや見方はちがうだろうが、教師が多いに加担していることはまちがいがない。もちろん、家庭の教育力を落としてしまった今の社会の仕組みや、学校のはたしている役割を今のようなもので良いとしている政治も責任は大きい。

 いったい、今度の田中角栄裁判と総選挙までいきつく政治の動きは、あれはなんなんだろうか。無罪を信じるかどうかは本人の勝手だが、とにかく、一審で有罪となった犯人と首相が会う。世の中どうなってしまったのだろう。

 この事件の一連のながれからみても政治世界は異常である。ぼくが、ひとりの庶民が、五億円の受託収賄をして(もちろんこんなことはありえないが、たとえば学級会計を十万円位つかいこんだとしてもいい)、それがばれて、起訴され、タイホされ、裁判の一審で有罪になる。そのときに、ぼくはずっと先生をやっていられるのだろうか。いや、ケイサツにタイホされた時点で即クビだ。それがどうして、政治の世界ならこうなるのだろうか。

 新聞も、どうして角栄一人だけには「元首相」とつけて、呼捨てにしないのか。彼は、元首相であるまえに既に法の裁きをうけた犯罪者なのである。

 このことで書きたいことは百万言も千万言もあるが、再釈放がとり消されれば、すぐに刑務所に入らなければいけない人間と、ホテルの最高級の一室で、日本の総理大臣が会う…。このことひとつとっても、子どもたちは、どう感じるのだろうか。これからの社会をしょっていく子どもたちは、どういまの世の中をみるのだろうか。

 教師にもいえる。政治の世界とおなじようにくるってはいないか。自分の人間性の信じるところによって、自分の生きざまで、子どもたちとしんけんに向かいあっているか。いや、この書き方はよくない。政治の掌中にとりこまれている教育委員会は、教師を採用するときすでに、ふるいをかけている。だから、教師の信じるところで教えられたら、政治がもとめている子とはかけはなれたとんでもない子どもができてしまう危険がある。

 ある学校では、教室で子どもが、かけ算がうまくできない、わからないようだと、その子のお母さんに、「すぐ、塾にかよわせてください。」と電話した教師がいたという。教える人がである。こういう教師がもうすでにでてきてしまっている。

 それでは、政治や教師だけが問題なのか。これも、ぼくの学校のはなしではないけれど、ある学校で体育大会の前に、子どもたちの各家庭のお母さんたちに玉入れにつかう玉を作ってもらった。玉の中に入れるものがわからなくて、小石をつめてよこしたお母さんがいたという。そして、玉の中身をつめたあとの閉じ方がわからず、輪ゴムでとめてだしたお母さんもいたという。かんがえさせられる。

 こうして、自分だけはまちがっていないみたいにえらそうにくどくど書いているぼくだって、じつはきっと、おぞましいほどの気狂い教育を、教室で、それも気づかずにやっているのだろう。