その43 九月一日の教室
きまた たつしろう
 夏休みを終えた子どもたちが教室にやってきた。こどもたちをみて、「真っ黒な体、とんろりした目」とぼくは表現した。始業式は、三百人のこどもたちが音楽室にぎっしりとつめこまれて始まった。きょうは、残暑というよりも盛夏そのものの暑さである。後ろから見ていると、子どもたちのランニングシャツからでている肩から汗がふきだしている。音楽室には、一学期のようなさんざめきはない。おもしろくもない話し(校長さん、ごめんなさい)を、じっときいている。汗が体中からふきだしているほどの暑さなのに、ほとんどの子どもたちは身動きしない。司会の先生がほめた。

 ぼくは、ちがうと思った。子どもたちは、さあ二学期だからはりきろうと思って、集中しているのではないのだ。生きていないのだ。教室に入ってもさみしかった。「先生、ぼくねぇ、海にいってねぇ」と夏休みの思い出をしゃべりたくてとびついてくる子もいないし、教室中がわんわんと、夏休みの話しを交換しているさわがしさもない。

 子どもたちは、確実にかわってきている。ただ、とんろりとした目で、ふらっと立っているだけである。ぼくの受け持ちの子どもたちの悪口を言っているのではない。ぼくは、自分の受け持っている子の悪口をちょっとでも他人に言われるとやっきりしてくる方である。

 この日は、始業式のあと防災訓練になる。この防災訓練は受け持ちとしては迷惑である。子どもとろくろく話しも出来ない。二学期の出発の話しをいっぱいしたい日に、机の下にもぐらせたり、運動場に並ばせたりで、なんにも落ち着けない。やらなければならないのなら、始業式の日にではなく、次の日以降にして欲しい。

 ということで、どたばたしてゆっくりできなかったが、放課後、子どもたちの夏休み中に書いた日記を読んだり、アンケートを調べたりすると、いろいろなところに出かけたり、たくさん遊んだりしてけっこう生き生きとくらしているのである。

 数年前までは、九月一日の教室は、あっちこっちでしばらくぶりで会った子どもたちは夏休みで体験したできごとを、「ぼくはねぇ」とか「わたしはねぇ」とかの話しで大さわぎであった。それが今年はどうしてなかったのか。子どもの目は、ぼくの方を見ていても、輝いていない。

「まっ黒な体、とんろりとした目」なのである。「夏休みは楽しかったかね」と聞いても。「うん」とか「ううん」とか言うだけ。
「ねえ。どうだった」と問いないしても、これまた、「うん」「ううん」である。しかし、おどろいたことにしせいはものすごくいい。しせいがよくて、静かな教室を望んでいたはずなのに、こういうかたちで実現してみると、すこし気にくわない。だがどうしてなのか、すこしわかるような気がする。

子どもたちは、「よし、あしたからまたがんばるぞ」ではなくて、
「きょうから学校だから、学校のワクにはめなければ」と思って、自分の持つ学校のイメージにはめこもうとしているのではないのか。
いい子になろうと精一杯がんばっているのではないのか。

そうだとしたら、ぼくと大人に責任がある。