その40 つたえていくこと、つたわらないこと
きまた たつしろう
 ある二年生の男の子の日記には、たぶん毎年仕込んでいるのだろうと思われる自家製味噌をおばあちゃんといっしょにつくっているようすが書いてあった。

(その子の日記から)
きょうは、ふるいおばあちゃんが、おみそを作りました。
あさ早くおきて、外に、おかまをのせるところを、
なやから出してきて、トタンで、えんとつを作りました。
それに、まめの入ったおかまをのせました。
それから、ろうかにおいてあるおこめのところへ行きました。
ぼくは、「おこめが、くさっているよ。」といったら、
「くさっているじゃあなくて、こうじが、はっこうしてる、というだよ。」
と、おばあちゃんがおしえてくれました。
くっついているおこめを、手でばらばらにしました。
くさくて、へんなにおいがしました。
まめがにえたら、おもちをつくきかいで、かきまぜました。
まめが、ふたの下でパタンパタンと音をだしてはねました。
少したつと、べたべたになりました。
おしゃもじについていたまめをなめたら、何も味がしませんでした。
それから、おこめをまぜてねりました。
もう一どなめてみたら、おしおのあじがしました。
五回ぐらいやったら、おけの中にいっぱいみそができました。

 自家製のみそを食べている家はめっきり減ってしまった。町部の子どもどころか、農村部の子どもたちまで、ほとんどが「みそは何から作るか」を知らなくなってしまった。知っていたとしても知識としてである。

ものごとを事実で伝えていくことの大切さを、この子の文はつくづくと教えてくれる。

 「お父さん、くわがた買ってや」とねだる子と、「お父さん、くわがたつかましにいくか」とねだる子のちがいを、なんでもないことだと思ってはいけない。みそに関して言えば、自家製のみそを使っている、ほんとうに数少ないしあわせな子どもたち(!)の中にも、自家製みそはモノがワルイ、マズイと感じている子がもういっぱい出てきてしまっている。

 コカコーラが薬くさいなんて言えば、もう若者を通り越して一部のおじいさんたちにまで笑われる時代になってしまっている。

 「いねの木におこめがなるといったけど、わたしのうちのおこめはちがうとおもいます。」と日記に書いてきた子がいた。この子に、農家の庭さきの苗つくり(そういえば、田んぼの苗つくりを、知らない子も多くなってきた)から、稲刈りをみせて、脱穀やさまざまな米の流通経路もみせて、おこめをはっきりとわからせてやるまでには、あと半年かかる。

 教育という仕事は、父ちゃんじいちゃん、かあちゃんばあちゃんまで含め、「世の中のすべてのことを見せてやる」仕事とも言える。