その38 春の転任とちいさな子どもたち
きまた たつしろう
 逆川の土手に菜の花が群れ咲く。桜はもう葉桜になりかけている。ぼくは、葉桜のほうが好きだ。今年は、つくしがことのほか多くて、小さい子がビニールの買い物袋にしこたまいれて持っていた。

 転任。ぼくは、掛川の南のはずれの小学校から西はずれの小学校にかわった。ここに長い間登場してもらった子どもたちとは別れた。その小学校には六年間もいて、村のすみずみまでわかってしまい、草花の一本の場所まで覚えたところで移りかわるのだから、この春の転任は、つらかった。

 こんどの学校は、山が遠いので周りが明るい。しかし、大きな工場がところどころにあり、となりの市に通り抜ける道が、教室のすぐ前を走っているので、すこしさわがしい。校舎は古くて、すすけているところもあるがこのほうが人間くさくて親しみやすい。

 こんどの子どもたちは、前の学校での最後だった六年生からぐっと小さくなって二年生。さすがにかわいい。声変わりをはじめた子どもたちとくらべると、ふみつぶしてしまいそうである。二年生は、たしか、十年ぶりの受け持ちであるが、その頃にくらべると、子どもたちのようすはがらりと変わってしまっている。

 新しい教室でまだ十日なので、くわしくはわからないが、いろいろな場面で、「がまん」の出来ない子が多いようだ。ひとつのことに、学級が集中できない。それに、十年前のあの頃は、なんにつけても、子どもたちの力の差、体の差がはげしかったが、今は、そんなことはない。

 これは、一方はうれしいことでもあるし、その反面つらいことでもある。つまり、みんな一律になってしまっていて、「ゴウケツ」もいないし「ハナタラシ」もいない。きっとこうなったのも管理主義のあらわれだろうか。人間が一律になるのは、小市民的で進歩が止まる。あらゆる種類の人間がいて、たがいに認めあっていくと、ゆたかに進歩していくものだ。

 ところで、がまんできない子どもというのは、どうしてできていくのだろうか。夢中になったものでも、次々とあきて、すてていく。長続きしない。どうしてこういう子どもが増えていくのか、とことん考えてみる必要がある。テレビと、つかいすて、世の中のいそがしさやはかなさと関係あることは間違いないし、学力中心主義も大いに原因するだろう。

 さて、二年生とくらしているのは、五年生や六年生とちがって、くどくどこまごまと用意してやるのだから、いそがしくなったが、実におもしろい。
 やることすべてが、かわいらしくて、にくめない。急に低学年にきたので、話しが通じなくて困ることも多いが、ぼくは「王さま」みたいなもので、何でも信じてくれる。

 給食に時間に「先生、パンを残してもいいですか」と男の子がいった。
「どうぞ、どうぞ」とぼく。
すると、たくさんの子がどっと返しにいく。
パンの箱がいっぱいになる。
ぼくは、となりの子に、みんなに聞こえるように、わざと大きな声で、
「パンのなかには、脳みそをよくする栄養がはいっているじゃんね。」と話しかけた。
すると、かえしにいったみんなが、またどっとパンをとりに行く。
それもすこし真剣な顔で。
パンは、たちまちなくなる。