その37 もうすぐ卒業式、重なる不安
きまた たつしろう
 何がつらいかといって、別れるほどつらいことは、ほかにない。あと五日で、子どもたちは中学校にいってしまう。ぼくは先生の手前、かっこよく、「さよならが、わたしをふくらめる」なんて子どもたちに言いきかせてはいるが、これは、自分に言いふくめている言葉で、うそ八百である。

 子どもたちと三年間もいっしょに暮らせば、やさしい子、ひかえめな子、元気のいい子…なんでもわかってしまう。だからみんなが「我が子」になってしまう。「いたずら坊主ほどかわいい」ということも真理になる。勉強ができるいい子は、次の世界でもそれなりに自分の生きる道をつかんで泳いで行く。ちゃんとうまく動き回る。そしてそのうち、「小学校の先生」なんてのは、すぐに忘れてしまう。

 今週の土曜日は卒業式である。次の日に、教室に行って、子どもたちがいない教室を見渡した時のさみしさったらない。
「さようならが、わたしをふくらめる」というのは、枯れた老人のいう真理であって、生きた人間にとっては、くそくらえである。今の子どもたちとは、三年間もつきあってきているのだから。

 前回、中学にいく子どもたちの不安とつらさを書いた。その不安は適中して、東京の町田市の忠生中学や、大阪の富田林の中学校で世間を騒がせる事件がおこった。おそらく、新聞にでているのは、実際のできごとの何百分の一であろう。事実、この付近の中学校でも、「そんなこと」はいっぱいおきている。

・先生に、刃をむけるもの。
・自らの体も心もずたずたにしてしまうもの。
・友だちにむかうもの。
・おのれの心と体を奈落の底におとしていくもの。
まさに、中学校は「この世の地獄」に落ちつつある。

 自民党の中曽根内閣は、アメリカ追随の軍事政策で評判を落としはじめたら、あわてて、内政重視ということで「教育の荒れ」を直すと言い出した。「教育が荒れているのは日教組(日本教職員組合)のせいだ」という。ちゃんちゃらおかしい。
「占領政策」だという。これもへそが茶を沸かす。

 ぼくの知っているかぎり、日教組の活動家の多い学校ほど子どもたちの「荒れ」は少ない。組合つぶしの上向き、ひらめ型の先生の多い学校や、教育委員会や事務所の言うことばっかり聞いていて職員室の先生をだいじにしていない校長さんのいる学校ほど、荒れてきている。

「子どもを管理してはいけない」
「今の高校進学制度はまちがっている」
「民主的な学校をつくろう」
「規則規則で子どもをしばるのはやめよう」

ということで、自分の出世をほっぽりだして生きている先生の多い学校ほど、子どもは荒れていない。「ひとごと」と思ってはいけない。おばあさんのやっている学校の近くの文房具屋さんがつぶれてしまったという話しは、ぼくらの町の話しでもあるのだ。子どもたちがおばあちゃんに見せびらかしながら、大量の集団万引き。とてもつらい話しである。

こういう世の中をつくりだしたのは大人と教師の責任でもある。