その26 入学式、始業式、新学期
きまた たつしろう
 春の空の下で学校がはじまった。ぼくは六年生を受け持つことになった。同じ子どもたちと三年目のくらしにはいる。とてもうれしい。もっとも、親たちはがっくりしているかもしれない。

 このごろの世の中は、目先目先と変化して行くのに慣れてしまっているので、同じ先生で三年間というと、父母もそうだが、先生たちの中でも「ちょっと、どうも三年間は…」と言う人もある。しかし、これは絶対にまちがっているとぼくは常々思っている。授業にしろ、生活にしろ、子どもも先生も気心が知れているので、新しい先生に比べて、三ヶ月から六ヶ月くらいは、能率的でいろいろな面で子どもも先生も得をするのではないだろうか。

 それはともかく、先生も少ないし子どもも少ない小さな学校のこと。各学年一組。全校では六つの組、その六つの組を受け持つ先生は六名、男の先生が二人、女の先生が四人なのである。しかし、本当は変な事だが、六年生は男の先生と決まっているように、ほとんど男の先生が担任になる。そんなわけか、ぼくも六年が担当になった。それでも、子どもたちは「まあ、きまた先生でもいいや」と、なんとなく納得したみたいだ。

 受け持ちを、校長先生が発表するとき、ばんざいをしたり、にこにこうれしがったりしてくれる子どもたちがいると、ほんとうに、こちらもうれしくなる。大げさではないが「生きててよかった」とつくづく思う。

 この春、ぼくの学校は、校長先生も教頭先生も両方ともかわった。学校のトップであり責任者の二人が同時にかわるというのは、いったい、事務所や教育委員会は何をしているのだろうかと思わざるを得ない。しかも校長先生は二年間いただけである。本当に、子どもの教育の事を真けんに考えてくれているのだろうか、と疑いたくなる。

 校長先生でなくともだが、一年目は、子どものことやら、地区内のこまごました事情やら、その学校の独自にすすめていることやら、わからないことが多い。なるほどと、あれもこれも理解するには一年位あっという間に過ぎてしまう。二年目になって「よし、それならこうしよう」とかいうような、子どもや地域にぴったりしたことが打てるようになってくる。ぼくもそうだが、子どもたちや地域を理解するには一年くらいは必要で大事な時間だと思う。

 それが、校長先生は二年いただけ、しかも教頭先生ともどもいなくなってしまう。これからだという時にだ。なにかかわらなければならない特別な事情でもあったのかはわからないが、あったとしてもこれはどう考えても、おかしい。このことは、新しく来た、校長先生や教頭先生の悪口を言っている訳ではない。事務所や、教育委員会のこのような方針が教育の現場をまったくわかっていないというのが問題なのだ。

 さて、六年生のこどもたちは、「一年生をむかえる会」というのをさっそく組織した。その中で、二年生から六年生までの子が校歌を歌った。もちろん、一年生はこの学校の校歌をはじめて聞くわけである。校歌の中の一番に、くりかえしでてくることばがある。二番や三番になると、そのことばが出てくるところがわかるのだが、一年生の子どもたちの中には、そこだけ、いっしょに歌い出す子が出てくる。生まれてはじめて
聞く校歌なのだが、いっしょに歌い出す。それを見ていた一年生の先生が「そういう子は、いたずら坊主に多いようだ」と言っていた。教室にいて、席につけとか、すわれとか、一年生の先生にいつも大声で注意されている子がまず始めに歌い出すことが多いのだという。

 「いたずら坊主こそ、生きていくエネルギーを沢山もっている」という、ぼくの日頃の主張が証明されたようで、一年生をむかえる会のこのできごとは、うれしかった。