その25 三月になると思うこと
きまた たつしろう
 もうすぐすると、ぼくの新しい子どもたちが決まる。もしかするとぼくは学校が変わっているかもしれない。ぼくとしては、今の五年生の子どもたちを今の学校で受け持ちたいきもちでいっぱいである。校長には、そのことを早くから伝えてある。子どもたちがぼくのことをどう思おうと、父母がなんと考えようと、一度あった子どもたちとは、ずっと別れたくない。

 三月の学校は、あと少しで卒業式をむかえる。この時期、五年生は忙しい。六年生を送り出す準備や、一年間学んだ学習のまとめをする。そして、六年生になっていく決意をしなければならない。「もしかすると、今の子どもたちを受け持つことができないかも知れない」と考えると、一番気にかかるのは、子どもたちが身につけた学力である。ほんとうに、五年生らしい力を獲得させることができたのかどうかということである。不安いっぱいでしかたがない。

 世の中は、すべてペーパーテストの点で決まっていく。テストの点で、勝ち負けが決定していく。こんな世の中はまちがっていると思う。本当にやっきりする。

 中学に行けば、点数で高校が決まる。点数の高い順番に、掛西と東高と掛工と小笠農工と…、というようになっていく。いけないとおもうし、まちがっている。

 だから、そういうことはまちがっているという運動をやっているが、なかなかうまくいかない。ぼくの子どもたちを、いやおうなしに、その中につっこませていくことになってしまう。つらくてさみしい。いままでも、中学生になったぼくが受け持った子どもたちが真っ先に話してくれることは、「今度のテストは何番だったので、次は何番になりたい」ということである。こんな友だちができたとか、こんなことが楽しかった、などということは、こちらが聞き出さないかぎり、なかなか話してもらえない。

 受け持ちの子どもの未来を思うと、行く道が想像出来てしまって、つらい。あの高校に行って、あんな気持ちですごして、大学へ入ったり入らなくて、この位の会社へ就職して、こんな嫁さんもらって…と。

 ピッピッと、まるで計算機のように子どもたちの歩みがわかってしまう。ぼくも寂しいが、子どもたち本人はもっと悲しいのだろうとおもう。敷かれた一本のレールの上で、明るくふるまうか、レールがあわなくてドロップアウトするしかない。

どうして、こんなことになったのか。

 どうして、紙の上に表すことのできる点数だけで人生を決定することになってしまったのか。今の世の中は一見、勉強さえすれば、だれもが社長になれる可能性があるように思える。そしてだれもがそれに惑わされる。しかし、しかしである。ピアノのある家の子どもは、ピアノを弾ける子と弾けない子のできる二つの可能性があるが、ピアノのない家は、ピアノの弾けない子しかでないのである。
ここに真実がある。

こんな世の中でいいのか。
子どもたちの未来をもっと明るくしてやりたい。