その24 テレビの罪悪と子どもたち
きまた たつしろう
 このごろの気候はおかしい。「立春」なんてうそみたい。暦では春の初めである。立春は二月四日頃なのだが、冬の真ん中後半の気候にはちがいないとおもう。学校の百葉箱の寒暖計は零下一度とか二度とかをさしている朝が続く。北国に比べれば…ということはわかっていても、運動場に出ているだけで、手がかじかむ。

 子どもたちは、体育着姿でマラソンをやっている。何年か前の東山口の子どもたちは、地面も空気もつめたいこの寒さの中をはだしで走った。太陽があたっても寒い冬、上半身裸になって乾布まさつもやった。

 学校全体の雰囲気を先生方が恊働でうまく作ってしまえば、子どもたちはびっくりするほどのことをやる。目的や課題を定めれば子どもの可能性を引き出していることにもなるし、見方によっては、管理主義や全体主義にもなる。このことは、先生が、何を願って、どんな未来の子どもを望んでいるかにかかっている。

 この寒さの中でも、ぼくの学校は数年前に新築されたばかりなので、教室にいるかぎり窓やドアを締め切っておけば、すきま風はないのであたたかい。窓側の陽が当たる子どもたちは、うとうとするくらいになる。あたたかい教室で、授業は遅れ気味。もうすぐ年度末なのでぼくは、授業をいそぐ。

 子どもたちはのんびり。自然と、話はくどくどして説明的になる。これはいけないと思いつつも急ぎ足になる。子どもたちのうとうと頭には、先生の話はお経みたいなものでさっぱり頭に入らない。そのうちみんな寝てしまうのではないかと思うくらい反応もない。三学期の教室は、ほんとうにうまくない。ぼくの教え方が悪いのだろう。それでも子どもの授業の態度が悪いと自分のことは忘れる。姿勢のよくない子、無駄話の多い子、手いたずらの子、等々を見つけてどなりだす。ますます歯車は噛みあわない。

 よく、「テレビっ子」と言うことがある。うまくいかない教室のことでああだこうだと悩む時、自分の考え方も反省するが、いつも、このことばが頭の中をよぎる。

 ぼくが先生になった十数年前の時の子どもたちと、いまぼくが担当している現在のこどもたちとは明らかにちがう。それは、刻々とかわる世の中の変化と関係無しに考えられない。そのなかでも、テレビはその世の中の変化の象徴だと思う。テレビに代表される「それ」が子どもたちの生きる力を少しずつ着実に奪い取っていることは、まちがいない。悲しいことに、それをわかってくれたお母さんも、もうテレビは捨てられない。今となっては、ぼくもそうだ…捨てられない。たまに、テレビを捨てた(見ない)話を聞くが、見ていないと言うことに特化しているため日本中で数件しかいない(?)話をテレビが報じているに過ぎないようなおかしなはなしであるが…。それだけ各家庭に浸透していると言うことだろう。

 授業とテレビの関係からいえば、いろいろな言い方はあるかもしれないが良きにしろ悪しきにしろ教育との関係とは深く関わっている。次に掲げるものは特に子どもたちに現われている。

まず第一に、「問い」と「答え」。問われてから考えて答える間が短くないと考えられない子どもを作り出している。問いの内容が答えと近く、直ぐ答えられるようにヒントを出したりして考える範囲を狭め、自ら考えさせる能力を奪っている。第二に、これはうらがえして「集中力」のない子や、「目的を持てない子」を作っているということにもなる。第三に、そして、子どもを画一化してしまった。だから教室は年がら年中、テレビから得たものの何かが流行っている。

 これがテレビの三大罪悪である。テレビの良さも信じたいが、教室の子どもたちの授業への取り組み方、生き方、考え方などみているとテレビがおぞましくなる。いろんな人たちと、テレビが子どもの生き方にどうかかわっているのかを考えあってみたい、としきりに思う。