その22 教育ってなんだろう
きまた たつしろう
 お正月。子どもたちの遊びを見ていると竹馬や羽子板やこま、お手玉やすごろく、カルタなんてものは最近めったにお目にかかれない。たまにおめにかかって感動していると、学校の宿題だというので、よけいにがっかりしてしまう。巷はお正月だが、今回も暗い話になってしまうが申しわけない。前回その21で、子どもたちのつらい話を書いたが、このごろ、あちこちで先生たちに関係したうすら寒い話を聞いたり、相談を受けたりすることがある。

 先生たちには、ぼくたちには、せまい教室の中で「この子どもたちをなんとかしてやらなければ」と夢中になっているうちに、思っていることと、やっていることが、いつの間にか正反対を向いているということはないだろうか。ぼくも、教室で子どもたちに、常々、「差別反対、暴力反対、罰反対」と訴えている。気づかないうちにそれとまるっきり、似ても似つかぬことを子どもたちに要求していたりして慄然とすることがある。このごろはしょっちゅうある。

 どこの教室にも、シールを貼るグラフだの、○×の一覧表だのがいくつも壁に貼ってある。そのどれもが、普通は良いことだの頑張ったことだのというグラフや表ということである。

 ある学校のある教室では「お花をありがとう」などというグラフがあって、教室の花を持って来てくれた子に、きれいなお花のシールを貼る。シールの多い子、少ない子、いつまでもシールの無い子など様々だがそのうちに、お母さんに泣きつく子がでてきて、そのお母さんは困ってしまって、お花屋さんに行って、子どもがねだる千円もの花を買って学校へ持たせてやる。先生は、にっこり笑って「まあ、きれいねぇ。」ということになる。これは、教育だろうか。

 たとえば一円募金のシール。家に一円がなかったので、近所のスーパーに行ってくずしてもらって学校へ持っていかせる。先生の方は、いくらシールを貼ってほめてやってもだめな子はいつまでたってもだめなので、このごろでは、だめな子のために、東京ではゴキブリのシールを売っているそうだ。それをグラフに貼るのだという。シールは需要が供給を生んだのだろうが、こんな話はぞっとする。

 また、子どもにあたえる罰もすごい。漢字の宿題を忘れた子に、ろうかのそうじだの、便所のそうじだのをやらせる。罰として漢字を書かせるのならまだ少しはわかるが、便所そうじをやっているうちに、ますます漢字をおぼえる時間がなくなるのではないか。

 さらには、学校で授業中にわからない子がいると、「お母さん、もっとお子さんの勉強をみてやってください」だの、「お宅のお子さんは塾にやったらどうですか」と連絡する先生もいるという。どうなっているのだろう。

 校則だろうか、学級の決まりなのだろうか子どもは自分の服を「私服」と呼んで、家以外ではほとんど着られないというのも、ぼくにはわからない。これは、教育だろうか。どうしてもわからない。

 もうひとつ、やたらに子どもをなぐる先生がある。もちろん、その先生にはきちんとした見通しと信念があるのだろうが、罪と暴力は、それを受けない子どもには、恐れからのある事に対する抑止力を期待できるかもしれない。しかし、常に受けるものには、それを常にエスカレートしないかぎり効果をあげることはできない。友だちの悪事をとめなかったということで、悪事をはたらいた友だち以上に先生になぐられたという子もいる。

 とにかくへんだ。ほんとうに、これでいいのか。