その19 九月の学校
きまた たつしろう
 夏休み明けの子どもたちは、休みが終わって一週間経ってもまだ、授業にのってこない。ぼくは、なんとかのってくるように、あの手この手と尽くしているのだが子どもたちはだらだら、ぼんやりの日が続く。夏休みの思い出に浸っているのだろう。ほおづえついて、あらぬ方を向いて、目が定まらぬ子。椅子の後ろいっぱいにお尻を引いて、机にもたれかかりぐったりしている子。なだめても、すかしても、反応は一切ないといっていいほど少ない。

 九月の学校は、どの先生もかりかりしていることだろう。先生がいくらいらいらしていても子どもたちの心はなかなか生き返ってこない。夏休みにだらだらしていて、急に集団生活になったからということが果たして原因なのだろうか。それだけが原因というわけではないように思う。座っているのをいやがって、イグイグする子や思う時に思う事をしたくて、いらいらしはじめ、そのうち先生にどなられる子が出てくるはずである。このごろの学校には、そんな子はまずいない。

 そんな中、先生たちは「三無主義」というのを話題にしたり問題にしたりする。このごろの子どもの、昔の子どもにはなかった欠点のことである。いわば、子ども世界の共通の病気である。それは、気力が無い、感じられないという無気力、すばらしいことや新しいことにも感動しないという無感動、ものごとに責任を持たないという無責任これらの三つの子どもの心の欠点のあらわれを言うのであるがさらに行動に節操がないという無節操を付け加えて「四無主義」と呼ぶ人もいる。職員室での話では、子どもたちの欠点、言いかえれば、先生たちのこれから立ち向かわなければいけないことがおきる時たいてい、この三無または四無主義で解釈はまにあう。ヤブ医者が、よく容態も見ないで「ああ、そうですか。ではお薬をさしあげましょう。」と言って、いつも風邪薬をもっともらしく調合してくれるようなものである。

 ともかく、九月の学校は無気力いっぱい。先生のちっとやそっとのおどしでは、子どもは生き返らない。先生の話は「聞こえていても、聞いてはいない」のであるから静かな教室で先生の声はひびきわたっていても、子どもの心の中にはひびいていない。
「それじゃ、もってきてごらん」とぼくがいう。
少し時間をおいて、
「先生。なんだって?もう一度言って」となる。
それも二、三人の子がようやく気がついてのことである。
 そして少し教室が動き始める。朝、教室にでかけると、教室の入口にゴミがいっぱい落ちていた。お日様はさんさんと輝いているのにカーテンは閉めっぱなしになっている。こんなときどなっても、反応はない。つまり、子どもたちは「見えてはいても、見てはいない」のである。

 九月ではなくとも、こんなことはいつもある。いっぱいある。はいてすてるほどある。先生はかあかあのしっぱなし。ぼくも、そんな子どもたちを前にして「生きているのか死んでいるのかわからん」と、ぷりぷりする。

 どうして、九月にそれが多いのか。ここが解釈出来て手を打てればよい。しかし、子どもは現代の社会がトータル的につくあげているのだから、ここをこう打てばこう響くという単純な図式は出てこない。社会とおなじで、複雑でさまざまな要因がある。まちがいなくいえることは、やっぱり、父ちゃんと母ちゃんが世の中の表面の動きだけにまどわされて、ちょこちょこ動きすぎてしまっていることだけは、確かなことだろう。それが、子どもをつぶしている一つの原因であることはまちがいない。