その15 子どもたちのお誕生日会
きまた たつしろう
 このごろ変な形になっている。もちろん始めは、親の「子どもへの愛情」から出発する。回を重ねるたびに主催側とお客様みたいになって、次第に、およばれとなる。子どもの世界の常識にはない、大人世界の消費生活まるだしの「たかいお金をだして買った」プレゼント持参で、子どもたちはその家のおまねきにあずかるということになる。そして、身内や知り合いだけだった誕生日のお祝いの会が、人数も会の規模もどんどんとふくれてくる。

 そんなことが続く中、「よばれた」、「よばれない」、「よびたくない」などという妙な感情が子どもたちの心をむしばんでいく。最初はお菓子や飲み物で簡単に済ましていたお誕生日会。けっして高価ではないが心のこもったプレゼント。しかし、この頃はみんなを招待するということで、お料理はどっかの洋食屋のデーブルの上みたいになっていく。

「これはちょっとへんだ」と思いはじめた親がいたとしても、もうおそい。自分の子どもは何度も、およばれしているのだから、当然、お友たちは、およびがかかると決めこんで待っているのである。あの家の時は、こうだったとか、この家の時はああだったとか何人来たとか、プレゼントもああだったとか…そしてしまいにはランクが付けられる。親たちも、我が子のためなら意味も無くちゃんとしてやらないと、と考えてついつい熱が入って頑張ってしまう。そして、誕生日が苦痛になる。

 いったいぜんたい、誕生日の日を変更し日曜などにやるのは、どっかおかしいのではないか。当然のこととして、誕生日は誕生日である。たまたま、日曜や休みの日になることもあるが誕生日が前倒し、後ろ倒しになるのは到底考えられないことだ。こんな話を聞くたびにぼくは虫ずが走る。

 同じように、母の日もそうである。ほとんどの子どもは、お金で買ったプレゼントをお母さんに渡すようだ。手作りのぶしょったいプレゼントは、子どもも嫌うし、親もありがたくはない。大分前までは小遣いも少ない子どもたちは、真心で動いていた。体を張って一生懸命に出来る事をやっていたように思う。

「今日は母の日でした。あまり何もしてやれませんでしたが、ただ一つだけやってあげました。それは茶碗洗いでした。」
こんな子のすばらしさに感動してくれる親が、どんどん減ってしまってきている。

 私事ですまないが、次の手紙はどうお考えだろうか。私宛に、ある子どもが、先生これ読んで。と渡してくれたものだ。
「明日は先生のたんじょう日ですね。おめでとうございます。ぼくは、先生にシャープペンを買ってやろうと思っていて、お父さんに先生のプレゼントを買いに連れていってもらおうと思って、たのんだら、『お父さんだったら、何か買ってもらうのより、何かを作ってもらったり、作文や何かで書いてもらったりしたものをもらうほうが、うれしいな。』と言いました。なので、日記でプレゼントを書くことにします。先生、ほんとうに、たんじょう日おめでとうございます。いつまでも、若々しく、ぼくたちのアイドルでいてください。ぼくも大きくなったら、先生みたいな、りっぱな人間になりたいです。」

こんな感じなのだが、おしまいのおだてられている文章の中味の吟味や詮索はともかくとして、もうぼくなどは、この文章ひとつで充分すぎるほど充分である。こんなプレゼントはとても嬉しい。母の日だって同じにちがいない。バレンタインディーみたいに、日本中がチョコレート会社の掌のなかでおどるようになって欲しくない。

さて、こんどの誕生日のおよばれはどうしたらいいか。