その14 ふくらむ四月
きまた たつしろう
 季節も変わり草花もつぼみをふくらませる。子どもたちもぼくたちも新しいことが始まるきっかけの時期だ。心も、期待もどんどんふくらんで行く、そんな四月。子どもたちは、春休みがおわってどきどきしながら学校にくる。きっと、通学の途中にあるつくしんぼうもいぬのふぐりも桃の花もなんにも目になんかはいっていないのではないか。

 新学期の出発は「こんどの先生はだれか」という胸のドキドキから始まる。異動のなかった先生は、「あの先生はやさしい」「あの先生は、たくさん宿題を出す」とか、厳格な押し付けタイプには「あの先生はよくおこる」なかには親しいだけなのに「あの先生はエッチ、いやらしい」などというさまざまな評価のものさしで、子どもたちはちゃんと選別している。そして、こんどは今の担任とは違うタイプに憧れる。そしてあの先生になってもらいたいなぁと考える。家の人たちも、「こんどはあの先生になってほしいね」などと考えたり、ひそひそと話し合う。

身近なおとなたち、すなわち親の先生への評価は、子どもたちとのなにげない話の中にも現れ、それが本能的に子どもにも伝わる。おおむね、適当に宿題を出したり、テストをこまめにやったりする先生のほうが、家の人たちには評判がいい。その評価は今の時点ではなくもう少し先のことの「高校」や進学のことを考えると、それもいたしかたがないとおもう。子どもたちは、学年を追うにしたがって、ものさしはちがうが、だいたい次のようなおおまかなものさしの中に含まれるのではないのだろうか。「子どもたちのことを理解してくれる」「ひいきをしない」「権力にこびない(味方になってくれる)」そのような先生をたぶん、いや、本心では望んでいるように感じる。ぼくなどはその点からいえば大失格だろう。

 新学期には何人かの先生が異動でやってくる。そして新任式にはじめて子どもたちの前に現れる。子どもたちの、新しくやって来た先生たちを本能的に「敵」か「味方」か、見分ける目は真剣そのものである。しかし、子どもは子ども。いつも顔をあわせている居残りの先生たちより、はじめて会う新しく来た先生たちの方が、おおかたはよく見えるものなのだ。朝、子どもたちが家を出る時に、「今年はあの先生になってもらいたいなぁ」と思った気持ちなど、新任式の中でふっとんでしまう。ボーッとなって、「あの先生に担任になってもらいたい…」とたちまち、気持ちが変わってしまうのである。子どもの心は、その場その場で変化する。

 子どもたちは、新しい受け持ちの先生を三月から気にしはじめる。ぼくが三月のある日の子どもたちとの集会の時に、となりに並んでいる三年生を、その日は担任が出張していたので世話やきしていたら、○○子ちゃんがすかさず言う。「先生、こんど四年になるの?」要するに三年生の側につきっきりでまるで担任のような雰囲気に感じたのだろう。そこで、ぼくは「どうして」と聞き返した。そうしたら、「だって、わたしらを見ないで三年生ばっか見てるじゃん。」と答えてきた。ぼくは細かい事は言わないで、「心配しなくてもいいよ。先生は、こんども、○○子ちゃんを受け持つよ。」と声を小さくして答えた。そうしたら「ほんとぅ。でも信じられん。」と言い放った。といった調子で、子どもたちは、三月には新しい担任を真剣に考えはじめる。

 とにもかくにも、ぼくは個人的にうれしいことに、持ち上がりの五年生を担任することになった。いつかは組の子ども全員に、この春からの担任も同じ、ぼくでよかった!とバンザイしてもらえるような力を身につけたいものだと思いながら、子どもたちにもぼく自身にもつらい気持ちで校長の担任発表を聞いていた。

 今年も力不足で、ぼくの受け持ちをよろこんでもらえなかった子どもがきっと何人かいるにちがいない。子どもたちは表向きにはそのことを現さないが、ぼくにはまだまだ力が足りないのではないかといつもそう思っている。そう思うと、つらくてさびしい。だから子どもたちに少しでも近づくように今年もいつものようにふくらむ四月。新しい気持ちで、がんばる。