その11 登下校の服装
きまた たつしろう
 小学生ぐらいのお子さんをもっているお父さんやお母さんたちは、この頃の子どもの服装についてどう思っているのだろうか。家での服装や外出する時の服装ではなく子どもが通学に着ていく服のことなのだが、小笠・掛川の小学校は、もうほとんど「体育の服装」だといってよい。

いつからこうなったのかは後に譲るとして、この辺には、どんな服装で通学してもいいということで、それぞれの子どもが自由にしているという学校はない、と言ってもよいのではないだろうか。このことは、じつは子どもたちのおもっていることと、ウラハラなことなのだ。

 ぼくの学校では、週に何度か決まって授業で子どもたちと一緒にテレビを見る。主に日本放送協会の教育番組の社会・理科・道徳などだ。この教育テレビの番組は、最初にテーマ音楽を流しながら番組が始まっていく。その中の一つに、東京の郊外の休み時間の始まるころのようすを動画で見せながら本題のタイトルがでてくる番組がある。その数十秒間のタイトルのあいだに、たくさんの子どもたちが、うれしそうな顔々で、校舎からどっと外にとびだしてくる様子が映し出されてくる。毎週同じなのに、そのたびに子どもたちは目をかがやかす。

 はじめは声に出して、「いいなあ」と言っていたのだが、この頃ではもうそれはないが、さいしょのころと同じ熱い思いで画面を見つめているのだ。それはなぜか。なにが子どもたちに「いいなあ」と言わせるのか。それは校舎から外にとびだしてくる、映し出される子どもたちの服装がまったくもって「自由」だからだ。スカートをひらひらさせている女の子、ジーパンや半ズボンやらの男の子。その様子を見て、
 「わたしらだって、自分の好きなものを着たいもの」(日記より)というわけだ。

 掛川の子どもたちは、一年生、いや幼稚園の頃からいままで登校のときの服装は体育の半ソデ半ズボンであった。それが、小学生のあたりまえのすがただと思いこんでいた。それが、このテレビを通して、外の世界を知った。広い日本の空の下には「自由」な服装で登下校している子ども達のあることを知った。しかも、受持ちの先生の話だと、
「そういう学校は、たくさんあるよ」ということだった。

 そんなわけで、毎週毎週、テレビのタイトルに現れる子どもたちのスカートやシーパン姿を、熱い思いで眺めて、ため息をつく。

 中学生になれば、自分の服を「私服」とよんで、思い通りに着れなくなる。くつ下の色まで決められたりする。高校生になれば、スカートのひだの数まで決められてしまう。

 ぼく自身も、今もって「私服」という言葉にたまらなく嫌悪感をいだいている。自分の金、お父ちゃんの金で買った服を、いつ、どんな時に着ようと勝手なのである。どういう服をどこで着るのかは、個人の問題。その人の美的感覚やら何やらなりの上で決めることなのである。これが大原則であるはずだ。でも、子どもたちのお母さんたちの中には「おしゃれに走りすぎると困る」とか「みんな平等で気をつかわなくて楽だ」とかで、体育の服装で小学校に行かせるのを歓迎している人も多い。親の都合なのだ。こども達には決まりだと言い聞かせる。その一方、家庭科などでは、「子どもらしいおしゃれ」を教えている。

 学校で学んだ子どもらしいおしゃれをした格好で登校してみたい、授業を受けたい。でも、子どもは学校ではためしてみることができないでいる。

 登下校の服装のことはみんなで考えてみたい、大きな大きな問題である。