その10 あとちょっとで冬休み
きまた たつしろう
 先生たちも、冬休みは夏休みにくらべて、たくさん休みがとれる。子どもも、「宿題」はだされないので楽しみにしている。教師共々喜々としている図なんてのは良いのか悪いのか。まあ、しあわせなことなのだろう。

 先生なんておせっかいやきの典型である。子どもにこんどはどういうふうによけいな世話をしようかと毎日思っている。この冬休みには「宿題」をださないということになると、そのかわりに「課題」をだすということになる。その「課題」もだめということになると、「こうしたらどうか」「ああやってみたらどうか」といろいろと考える。もちろん、少しでも、子どもの生活が楽しいものになればということで考えていくのだが、そうというわけではなくなる場合もなかにはでてくる。ほんとうに子どものためになるのかどうか、このことに気をつけていかなくてはいけないと思う。

 こんどの冬休みには年の暮れらしい、年始めらしいくらしを体験させてやりたいということで、考えてみた。休み前に家で作って、それで冬休みの正月を楽しむというアイデアだ。いろいろと出て来たなかで、だんだん絞られてくる。「たこ」はどうか、「竹馬」はどうか、「竹とんぼ」「こま」「かんうま」「はごいた」は、などなどと言ったものを体験させたい、伝承させたいというものになってきた。

 はじめのうちは、「作ってごらん」「やってごらん」ということで、子どもたちに話し、出発する。それを子どもたちはお父さんお母さんに話し、親と子がいっしょに作り、子どもとともに正月に遊ぶのではある。家庭内で完結する。しかし、だんだんそうでなくなる。できばえや、ちゃんと作ってくれているのか心配になってきてしまいには確認したくなる。結局エスカレートして、「全員、何月何日までに作ってもらってもってこい」という宿題になっていってしまう。

 子どもたちの家庭にはそれぞれそのうちの事情もあるのはわかっている。できるひとだけつくってきなさいというふうには伝えるのだが、ことはそれではおさまらない。たとえば、団地の四階に住んでいる、若いお父さんとお母さんの子どもまでが、竹馬やたこを作っていかなければならないということになってしまうからだ。「そういう人は作らなくてもいいよ」ということであっても、学級のほとんどの子が持ってくるということになるのであればその子はたまらなくさびしい思いをするということになる。目的・出発はすばらしいことであっても、いつのまにか、ことがすすむうちに「子どもの生活が悲しいもの」になっていく。いわゆる「総論賛成、各論反対」というのと似かよっている。

 こんなこともある。このごろの子どもは、ものすごいお年玉をもらう。十万円かせいだなんてのも、めずらしくない世の中になってきた。そこで先生、またおせっかいをやくようになる。冬休みの前に、子どもたちにお年玉でもらったお金の使い方、むだづかい防止の指導をこんこんとしたくなってくる。出発はよい。どこの家だって、子どものむだづかいをなくすことを教えてくれるのだから
「先生うれしいよ」、ということになる。
なにしろ、「先生の言うことはよく聞くが、わたしの言うことはなんにも聞かない。だから、先生よく言い聞かせて下さい。」ということばのはやるこのごろである。

 しかしである。よく調べてみたらいい。いなかの片すみに、町の片すみに、「お父さんから五百円もらい、お母さんから五百円のお年玉をもらい、そのあとは全然もらいませんでした。」という子が実際にいるのである。そんな子にとっては「むだづかいの話」なんてのは遠い世界のこと。つらくてさみしいから、お年玉のアンケートにうそを書き込むということになる。

「どの子も」ということは、ほんとうに大きな話なのである。