その9 運動会も終わったが
きまた たつしろう
 毎年の事だが、ことしもすこし、ほっとしている。しかし子どもたちには、このままほっとしてもらっては困るので、いろいろと理由をつけて、はっぱをかける。秋はきっかけをつくる理由がつけやすい。「スポーツの秋」、「勉学の秋」、「食欲の秋」、「読書の秋」などなどすらすらと出てくる。いい気なものである。次々と目標をかかげてつっぱしらせよう、暑いだ寒いだもないこの時期に気をぬかせまい、というわけである。メリーゴーランドの馬のしりをたたくこととあまりかわりがない。

 ぼくの組でも、運動会の余韻を残しながらも授業に本腰をいれることとする。国語はアルペンルートの旅行のことを取りあつかった「立山・黒部をたずねて」という作文教材と、「一つの花」という反戦(?)教材である。教師は「よし」と腰をすえてはりきり出したが、子どもはのってこない。

 月曜日と火曜日は日曜日にあったいろいろなことで疲れていて、だめ。金曜日と土曜日は週の後半の疲れがでてきて、だめ。さらに今年の気候の異常さとかせなって、どうも子どもたちに授業中のあくびが多い。こんなふうで、授業にのってこない子が多い。ぼくの準備や教材研究の不足をたなにあげて、責任を子どもにおしつけている様にも思う。

 いつもは謙虚に、子どもたちにはかっこいいことをいっている。
「みんなのわからないのはね、先生の責任なんだよ」というのである。
でも、いざ、コウフンしてくると、ちがう。まるで、先生が頑張っているのに、おまえらがすべていけない、ということになってしまう。いい気なもんである。

 「あくび」は脳の酸素不足、なんていうことは百も承知でいながら、こちらが夢中になって授業を進めている時、すいこまれそうな大きな口をあけて、大きなあくびをされると、カッカッとしてしまう。頑張っている様を、ちょっとばかにされたように思ってしまう。それで、どなってしまう、ということになる。

 こうなってくると、ちょっとした子どもたちの動きにも反応してしまう。困ったこがでてきて、友だちと相談していい答えをつくろうとして横を向く子に先生は「こっち向け」といらいらしてくる。
子どもと先生がどんどん離れていく。
そのうち、秋は勉学どころか、ガミガミの秋ということになってくる。

 まあ、こんなイライラの秋の話とは別に、すこしはこのことに関係があるかもしれないことがある。そのひとつにはこのごろ、「つかれている子」や「おこってもききめのない子」が多くなってきたということである。子どもたちに生きがいがないから、または見つけられないから、なにごとにも命をもやすことがないのである。「大人の小さい人」みたいな感じで、毎日流れるままに平凡な生き方をしているのである。なんとなく生きている、またはいろいろ気をつかって生きているのである。

 先生がさまざまな場面で授業中カッカッとコウフンしても、
「先生、おさえておさえて」
というわけで、子どもたちはさめた目で見ているのである。
どっちが大人なのかわからない。

 教室での先生の大きな演技を、つめたい目で「あの先生、もっと大人らしく、冷静にした方がいいんじゃないの」と心の中ではそう思いながら授業をうけているのである。