その8 このごろの学校はいそがしい
きまた たつしろう
 名前からして奇妙奇天烈な「掛川タウン誌・78%」という雑誌に、この上もなく場ちがいな「教室風景」などという雑文を、しかもなんでこの俺が書きつづけなければならないのか。掛川で初めて出版されたタウン誌だと言う。静岡西部地区では二番目に創刊された。掛川市民のというより若者のメディア誌というふれこみだ。この雑誌の編集長の永倉さんににどうしてもと頼まれたのだが、選ばれた理由も今もってわからないままに、今日も書きつづける。先日も、町であった教え子にこのことを話したら、「先生、フンルーイ!」と言われた。今の世の中、ムードで解釈できれば、それでいいのかも知れない。まあ、「先生」と、二十歳をすぎた若者に、今もって言ってもらえるだけでもがまんするとしよう。)

 このごろの学校はいそがしい。先生たちは組合を作って、教育にはあまり関係のない雑務排除の運動をやったりする中で、校長先生にかみついたり、そういうことをしていく中で自身気をつけて、余分な仕事をなんとかどかしていこうと努力してはいるが、そういうことができない子どもたちはたいへんである。

 高学年の子どもの場合、五時間目が終わってから帰りの会をやって、ちょっと息をつけば、もう四時をすぎている。それから、係りの仕事やら、市内陸上大会の練習やら、運動会の練習である。目のまわるようないそがしさの中で、「下校時間」の放送がはじまる。そして、こどもたちは学校から追いたてられるようにして、校門を出る。寄り道をするひまもなく、一目散に走るように家に帰ってすぐに「宿題」をやったとしても、やっているあいだにすぐ暗くなる。宿題が終わったかとおもうと夕食をいそいでかきこんで、地区の小学生等で構成される掛川伝統の祭りの、たいこの練習にかりだされてでていく。たいこの練習が終わって帰ってくれば、もう夜の九時をすぎている。「じゅく」だの「おけいこ」だのある子は、もっとたいへんだ。過密な予定で毎日をこなさなければ、次の日が来ない。年がら年中、何かしらんでてくる。

 そんな中「宿題」をなくしてしまおう、と考えてやってみる先生も多いが、うまくはいかない。「勉強がおくれるのではないか」という大部分の親の反対で、どうも考えとは違うことになる。多くの場合、ドリル位はださなければならないのかなと思うようになり、どうしても「宿題」として出すことになってしまうからだ。
「きょうは宿題はありません。」とはもう簡単にはいえなくなっているのだ。ぼくの四年生も、にたりよったりである。

 このごろ、簡単に「きのうのくらし」というアンケートを子どもたちに毎日書いてもらっている。子ども達が書いてくれた内容を見てみると「きのうは思いきりあそべた」「うんと楽しかった」という子どもの数より、「あそべなかった」「あまりあそべなかった」という子どもの数のほうが、毎日、よほど多い。テレビも「一時間」とか「見なかった」という子が、意外とあるのだ。子どもをもつ父母たちのなかには、そんなばかな、と思う人もいるにちがいない。

 もちろん、子どもたちの中には、テレビを四時間も五時間も見て、思いきり遊んで、「宿題」なんか全然やってこない子もいることはいる。しかし、全体的には子どもたちは、「遊び欠乏症」になっているように思う。このことは生活のいそがしさのせいだと思う。はたで見ていると大部分の「まじめな小学生」のくらしは、自分のくらしなんてないみたいに思う。いろんなことで、いっぱいいっぱいなのだ。

 子どもたちは、ほんとうは年がら年中、「思う時に、思うことを、思うだけ」やってみたい、と思いつづけているのではないのだろうか。大人は、子どもたちの本心をのぞけなくなってしまっている。