その6 夏休みの宿題
きまた たつしろう
 夏休みの間に、塾に行ったりする子も増えてきたが、この勉強とは本来の夏休みの趣旨とは方向が違ってきて、学校が夏休みの間子どもたちに自宅で行ってもらう学習である。いつの間にかこの勉強は「宿題」ということになってしまっている。いまは夏休みの宿題で通る。科目ごとの課題も出されるので「研究」とか「作品」とかよばれている。これは夏休みの自由研究である。学校によっては「一人一研究」「一人一作品」などとよばれている。こうなると「宿題」ということになっているのも、むべなることなのである。

 夏休みが終わったあと、学級や学校全体で発表会を開いたり、作品の展覧会をやったりする。廊下に並べたり、教室に貼り出したり。体育館でもやったりする。一つの恒例催事のように学校の行事に組み込まれている。それにあわせて参観会をやる。親が全部手だしして作ったようなものに金紙がはってあったりすれば、もう親たちがどう思うか、わかりきったことなのである。しかも、そのうちの一人二人が選ばれて、静岡県小笠地区全体の発表会に出場していくのである。コウフンしてしまう。

 この夏休みの「宿題」には先生たちにも言い分はいろいろとあるが、親たちからすれば、もっともっと大きな言い分がある。夏休みの終わりが見えてくる八月二十日すぎになると家庭の中はたいへんなのである。しかし、夏休みが終わろうと終わらまいと、子どもは子どもである。その日ぐらしが本能。明日やるから、まだ五日もあるからなど、今の時間の方が大事なのである。もうすぐ新学期がはじまるというのにまだ、あれもやってない。これもやってない。ゆうぜんとしたものである。

それをみて親はいらいらしてくる。子どもにハッパをかけて、宿題に口を出してくる。それでものんびりしている子ども。できていない宿題にいろいろと案を出す。子どもは、う〜んとか、あ〜んとか、一向にらちがあかない。いよいよ間に合わなくなってくる。だから。つい手を出し宿題を手伝い始める。そのうちに、どっちがやっているのかわからなくなってしまう。出来上がってみると、親の作品ということになる。先生の方も充分そんなことは承知の上で、ちょっと見のよさにひかれて、高い評価をするということになる。矛盾だらけなのである。

 ほんとうは、夏休みは、家庭生活や社会生活の勉強が目的なのであるから、勉強や宿題なんかいっさい出さないのがあたりまえなのである。しかし、親の方は、「あそびほうけてしまっては困るから、ちょっとだけは宿題を出してほしい」と望む。先生の方も心配で「夏休みにしかできない勉強をしてほしい」と子ども達に望む。そんなふうにして、毎年毎年、変わりばえのしない「研究」という課題がだされるということになる。夏休みってなあに、なのである。

 日記を書かせたり、漢字の練習をやったり、計算ドリルを進めたりして、ほんとに、夏休みらしいのだろうか。進歩があるのだろうか。実は、まじめにそういうものをやってきてくれた子でも、漢字や計算などはテストしてみるとちっとものびていないのである。

だから、このあたりで、先生もすなおになる必要がある。今までの常識をすてる必要がある。親も。もっとはっきりと、ほんとの、夏休み終了直前の家の中のおとっちゃままでまきこんで夫婦げんかまでして、おおさわぎしたわずらわしさを、ありのままに先生に伝える必要がある。すばらしい、見たとこのいい作品や研究はできあがったけれど、その中にどれだけの親のアイデアと手数がはいりこんでいるのか知らせる必要がある。夏休みの研究・作品でなく、「夏休み終了直前の研究・作品」だということを訴えるべきなのである。

そんなことはわかっていても先生たちは、ほんとうを言えば、心の底からは悩んでいないのである。なぜなら、大勢順応なのであるから。親達とも、学校ともうまくやっていきたい、ともおもってはいるがおかしなことになっている「宿題」をいまは変えてはいけない大きな流れのなかで習慣みたいな感じで捉えているからだろうか。そして夏休みがはじまった。