その5 六月の教室
きまた たつしろう
 体育の時間がプールだということで、ほとんんどの子どもたちはそれだけでうれしいのだ。六月の時間割表を見ては、ニコニコしている。だけれど、その予定の時間を一度でもとりやめれば、大変なさわぎがもちあがる。つい、昨日、「先生、あのね。わたし、先生が好きだやぁ。」なんて、内緒で恋(?)をうちあけてくれた子が、こんどは目をつりあげて、口をひんまげて、まるで憎っくき敵に対するように抗議してくる。子どもはこれほどまでにプールをまちどおしく楽しみにしている。

 六月はまた、子どもたちがプールがまちどおしいように、先生たちはボーナスの日を指折り数えてまっている。ぼくもその中の一人なのだ。ボーナスをもらったら、あれを買おう、これをして楽しもうというのではない。なに、早く、借金を返したいだけの話しである。共稼ぎの先生の家なんかは、近所から高給取りのようにみられているが、その家計の実情は、はたが思っていることとはずいぶんちがう。先生の家だってボーナスをあてにして買いものしていて、世間様と同じで、台所は火の車なのである。借金もあり、一人の給料では食っていけないから、共稼ぎをしているだけの話なのである。

 前書きばっかの文になってしまったが、教室の子どもたちの上にも、世間の動きは乗って来て、直接ひびいてくる。ある女の子の通信日記にはこんな事が書いてあった。

「今日、学校から帰ってくると、お母さんとおじいちゃんが、内職をやっていました。手つだおうかと思ったけど、むつかしそうなのでやめました。『いくら分』と聞くと、『今、六十円分だよ』と言いました。わたしは、(あんなにむずかしいのに六十円だけぇ)とおもいました。」(日記より)

たったこれだけの日記だけれど、この子の住んでいる世界がそのまま映しだされている。この子にとっては、六十円がどんなにたいへんな労働の中で稼ぎだされるのかが、痛いほどわかっている。

 同じ教室の中に、一日五十円、百円のこづかいを使っている子も多い。落ちていた一円玉を、石けりにして遊ぶ子もいれば、反対に「もったいない。」とひろって大事に大事に、ついていたどろをふきとる子もいる。やっぱり、子どもは「社会の作り出した人間」なのである。世の中の不景気のようすは、教室の子どもたちの生活にも、じわじわとおしよせてきている。

 ある日、授業をしていると『みなさま、○○をよろしく』という声が聞こえた。きのうは、テレビで××候補者のしょうかいがあった。学校の近くに貼り出されている選挙のポスターには△△のエースなどと書いてある。人物の大きな写真とともに、興味をわかせる言葉でうまいこと書いてある。子どもたちは日頃そこにはなかったものが貼り出されると、そういうのにも関心を示す。

「わたしのお父さん、お母さん、だれにいれるかなぁ。」
子どもたちはこんどこの町で選挙がおこなわれることはこんないつもとちがった環境の中でわかってきている。授業をすすめるには少し音がきになるので選挙カーが通り過ぎる間、選挙のはなしになった。なかには、こんな質問をしてくる子もいる。「車の中の人が手をふれば、わたしたちもふることにしました。わたしたちは通るたびに、手をふつてやります。わたしは、まだわからないけれど、一応、++++さんにしています。先生は、だれにいれますか。」

 選挙も、教室にいればやかましいだけであつた。しかし、子どもたちの前では、うっかり、選挙カーのやかましさのグチもこぼせない。家に帰って「先生は、あの人の悪口を言ったにぃ。」などと、誤り伝えられたら、大変なことである。

 子どもたちにはこういうことにも、気を使って話さなければならない。