その4 できる子できない子
きまた たつしろう
 こんどぼくが受け持った四年生については、三年生の時に受け持っていた前の担任の先生から、「人なっつこくて、気持ちのいい組だよ。」と聞いている。

 まったくその言葉通りで、休み時間など、次の授業に返す子ども達のテストのまるつけをしているぼくの机のまわりを山もりにとり囲んでしまって、がやがやと実に楽しい。子どもたちは、授業中ではないので自由に、ここぞとばかりにいろいろな事を話しかけてくる。話す内容は子ども達から見える世間話である。二軒も三軒も向こうの関係ない家のねこの生んだ子どもの話しから、となりの家の夫婦ゲンカの話しから、ありとあらゆる話しをしてくる。テストのまるつけだけならいいのだが、ちょっとした説明を書いたりしていていそがしくて子ども達の話になま返事だとブーブーとおこる。
「ちゃんときいてない」「とか、まじめにきいてよ」とか。

 しかし、こんな楽しそうな子どもの世界にも、大人社会を反映した「いやらし側面」は敢然と、はいりこんできている。当然のことだと思う。たとえば自動販売機で「少年ジャンプ」を買おうと思って、その横の本を見ると『少女の痴態』などというビニールでつつんだのが並んでいるのである。だから、二年生位の女の子でも、肩にさわっただけで、
「先生いやらしい!」「先生、エッチ!」
などと叫ぶ子が最近はいっぱいでてきている。

 ほかにもある。教室で一番きががりなのは、「ばか」「できない」「とろい」「ちがう」「だめ」などの、人間社会を分裂させる、その子の思想性を疑うことばがポンポンと出てくることである。
「なんでそんなことできないんだよ。ばかだな」
「なにやってんだよ、とろくさ〜」

 子どもたち自身は、その言葉の持つ意味をほんとうに理解してはいないのだろうが、子どもたちの会話のなかで常に使っているうちに、そういう言葉で支配される世界にひきずりこまれていくにちがいない。「ばか」とか「りこう」とかの言葉を使って他人を見て分類していくうちに自分自身が、そういう言葉でしか人間をなかまわけできなくなる。そういう見方で人間を見ることは、結局は「ばか」なのだということに気が
つかない。

 たとえば、授業をやっているとき、ちょっと質問をして、太郎君を指名する。太郎君は答えがみつからなくて困っている。すると、次郎君が物知り顔で先生に話す。
「先生、太郎君はいつもああだよ。ばかだもんでね。」という。
こんな場面がたくさんある。

 五、六年生では、心で思ってもだまっているが、四年生位だと、どんどん口に出す。「できる」とされている子が発言すれば、まちがっていようがいまいが、みんな「いいでえす。」と返事をするようなこんなおかしなことも多くなってきている。

 やっぱりこれは、家の中で、社会で「あの子はできる」「あの子はできない、だめ」というものさしで子どもの評価をしているからなのではないか。もちろん、現在の学校のしくみにも大きな問題がある。本読みが「うまい」という子が、みんなのまえで本読みをすれば、たとえ二〜三カ所まちがったって、一行飛ばしたって、まわりの子はだまっている。「へたな子」がまちがえれば一カ所だって教室中から、わぁとなおされる。

これはどうしてもなおしていきたい。