高橋宏のこれが言いたい!(最終回)
Vol.65 1985.8月号掲載 
高橋宏君。この一年間本当にごくろうさま。レポート料もなしでよくガンバッテくれました。今回は最終回。高橋君の言いたいことをぞんぶんに書いて貰いました。ちょっと長いので、途中で日本茶でも飲みながら、どうぞ。肩の力をぬいて…。(78%)



 この度、まことに勝手ながら、一身上の都合により、このコーナーを終わることになりました。(間違えないで下さい。元名はあくまで『高校生のこれが言いたい!』コーナーです。)こうなりゃ何だって出来るじゃないか。『中年はこれが言いたい!』コーナーとか『おばさんはこれが言いたいわ、絶対言わせて!』コーナーとか、最近の小学生あたりもかなり鬱積しているから『小学生にも一言言わせろ!』コーナーとか…。よ〜くこの掛川の町ん中見渡して見れば、言いたいことたくさん抱えている人けっこういるみたいですね。文句ありそ〜な顔して歩いている若者の多いこと多いこと。言いたいことのあるシトは、どんどんこういう78%とかを利用して、それこそ3〜4人でもいいから徒党を組んじゃって、言いたい放題やってみたらおもしろいんじゃないかな。

 特に僕は思うのですが、掛川に住む若い衆は、自分達が住んでいる町なんだから、掛川の市政をはじめ、文化とか身の回りのことに対して口を挟んでいいと思うのです。(例えば、今の新幹線の寄付、ありゃぁ寄付じゃない半強制だとか。もしそんなに市の財政が大変で、その分市民にごやっかいかけるだろうということが前もってわかっていたなら、決定する前に、もっとじっくり、新幹線の駅をつくること自体についての是非を、十分納得いくまで煮詰めてからにすべきだったと思うんです。そーゆーことは、市の将来にかかわることなんだから、話に何年かかってもいいと思うんです。だから今、なかなか思うように寄付が集まんないなんて言うのは、実際「出す余裕が無い」っていうのもさることながら、そーゆー行政主義の、下の者のことをお上が考えないというそのやり方に対する無言の抗議だと思うのです。)

 おまえばっかしそんなに喋って不公平だって?ほらほら、それがいつもの掛川人の悪いクセ。(僕の中学の時の音楽の先生だ、「小笠地区の生徒の悪い所は、人の意見に左右されやすく、すぐ人の目を気にすることだ。」と言われた先生がおりましたが、全くその通りだと大人になった今でもそう思います)若者なんだから、どこぞの村の寄り合いみたいに、話が終わって帰り際になった途端に議論百出、百家争鳴、あっちでもこっちでも本音がヒソヒソ飛び交うような年寄りくさいことはやめて、まずは自分達が矢面に立って意見を言うべきだと思うのです。あくまで明るい太陽の下で、それに対して文句のある人は、その人と同じ壇上に上がって意見を言えばいいんです。そうやって、公衆の目に見えるところで議論を戦わせることで結果的に掛川の町が活気づくのなら、多少出たい放題言おうが、その方がいいと思うのです。と、のっけからえらそうなことを書いてしまいましたので、またその気になったら『若い衆はこれが言いたい』コーナーでもやってみようかと思っています。そんなわけで、今回は、ずいぶん長い前置きになってしまいましたが、このシリーズを続ける中で、しつこくこだわってきた問題を僕なりに述べることで、このシリーズの終わりにしたいと思います。

非行の原因をめぐって

 先日、とある知り合いの教師が「最近の職員会議で話すことと言ったら、荒れる生徒達をいったいどうしたらいいのか?というようなことばかりだ。」と嘆いていましたが、事態はそこまできているのかと思うと同時に、そんな大人達の議論の中、「いったい、その非行生み出す原因は、社会にあるのか、それとも彼等自身にあるのか?」ということがいつも、その対応を迫られる折に問題となってきた事柄だと思います。(勿論、その「非行の原因」などと、どの人間の場合も十把一絡げにできる程、問題の所在は単純でないことは、この複雑に様々な原因がからみあった現代社会においては明らかではあります。)この問題についてはかねてから、78%の投手欄にもいくつか意見が掲載されたし、昨今のどの新聞の投書欄などを見てもこうした議論で持ちきりなのですが、巷のそうした議論を見るにつけ僕は、イマイチ議論の歯車が噛み合っていないというか、問題が消化不良を起こしているというか、そんな一種の歯がゆさとでも言うようなものを感ぜずにはおれないのです。

 それはつまり、常に大人の側はその原因を若者達の責任(キョービの若いモンはまったく甘えとる、なっとらん!式の)に問題を返そうとし、若者の側は若者の側で、その原因を社会の側に押しつけようとする傾向(こんな俺に誰がした?!ヨーシ、グレてやる!)があるということです。こうした「両者自分の陣地からは一歩も出ず」式の水掛け論からは、議論の語調がヒステリックで自己弁護的なものになりこそはすれ、何の建設的な解決方法も生まれないままに終わる、というのが世の常であったハズです。にもかかわらず、こうした不毛の議論がいつ果てるともなく続いているのを見るにつけ、僕はいつも。ナンカおかしいと感じつつ、次のように思うのです。

大人達は悪い

 僕は今、あえてハッキリと言いたい。「大人達は悪い!」と。こう言うとまたすぐにでも、ハゲチャビンで恰幅のいい○○委員会のエライ人や××代議士先生から、「悪いのは、大人だけじゃないだろう?君達みたいにそうやって先生を殴ったり、夜、夜中ポンポンをぶっとばしたりするのは君達にも責任あるんじゃないの?」という訳知り顔のお説教が返ってきそうですが。が、僕が言いたいのはまさにそこなのだ!そうやってまずはスルリと自分達に向かってくる矛先だけはうまくかわしてしまう無責任な大人達のその態度なのだ。別に僕は20ン才にもなって、今更親や先生殴ったり、(殴りたくても、今はもう先生はいないのですから。僕のこのウッ積したイライラはいったいどうしたらいいのでしょう。悲しいことです。ある意味で大人になるということは。)チリチリパーマにサンダル履きでポンポンに跨がりたいとも思わないし、ましてや全面的に彼等の立場に加勢して自分の怨念を晴らしてやろう。などというケチな根性持ってる訳でもありません。ただ、確実に、「大人は悪い!」し、そのことを大人はハッキリと認めるべきだということを言いたいのです。そう、あえて批判を恐れずに言えば「大人が悪いから、子どもがそうなった。」のです。

 大人だけがとは決して言うつもりはありません何故なら、人間である限り、どの原因もある一つのものにだけ責任があるということはないからです。人はおのおのとの関連にとっていきているからです。しかし、人間とは不思議なもので、他人から自分達の非を指摘されるとつい。「そーゆーおまえらは…。」と切り返したくなる動物らしい。それは大人も子どもも区別泣く、同じ事が言えるでしょう。でもちょっと待って下さい。いま大切なのは、そうやって「悪いのは俺たちだけじゃない。」と開き直ることでしょうか?僕はそうは思わないのです。今大切なのは、まず勇気を持って認めることだと。そしてもういゅかい大人である自分達がしてきたことを冷静に振り返ってみることだと思うのです。「どんなに小さな石ころだって、この道を支えている大事な一つの石ころなんだよ。」っていうのはある本で読んだフレーズなのですが、今大事なのはその認識なんじゃないでしょうか。その責任のほんのちっちゃな一部分でも背負うことからしか何の解決も説得力もないと僕は思うのです。

 子どもというのは生まれた時は、まったくの無防備のまま生まれてくる生物です。そには何のとらわれも固定概念もなく、限りなく周りの環境に適応していける液体のような存在だと思います。良くも悪くも、大人や生まれてきた時代やその社会の影響をダイレクトに受けて育っていきます。悲しいかな、それが、自らの誕生の時と場所を選べない人間の宿命でしょう。そういう意味では、ある種、こどもはその親なり、社会なり、時代なりの“業”というか“ウミ”というか、そうした因果を背負って生きていくしかないと思うのです。

 もう一度、過去をよく振り返って見て下さい。今の、悪さをして手の付けようのない子ども達が、彼等が海を汚しましたか?彼等が空気を汚しましたか?人間の基本的情操をはぐくむ野山や、自然の恵みに満ちた遊び場を無くしましたか?彼等が金や物以外に人間の喜びの価値を見いだせない社会をつくりましたか?いいや、そうではない。それをしてきたのは何の疑いもなく、むしろ肯定すべき価値として推し進めてきたのは、いまのそうした荒れた子ども達を持つ親達、大人達の世代であったはずだ!そうやって今の子ども達から、自然や、物質・金銭以外の価値を奪っておいて、今更「今の子どもときたらテレビゲームばっかりやって、文部省唱歌の一つもうたってみたらいいのに」となげいてみたところで、それは当の子ども達にしてみれば何の謂われもない言い掛かりとしてしか受け取れないでしょう。それは単なる懐古主義、自業自得というものです。

 戦後、あまりに急速に経済的復興を成し遂げようとしたばかりに、自然のみならず教育をも単なる人間の選別機能として機能させ、学校生活・勉強というものから、真に人間にとってたいせつな生きる喜びや希望というものを払拭させてしまったのはまさしく、今の日本を動かしてきた大人達であったはずなのです。今や、子ども達にとって、「勉強」とは、いかに多くテストで点を取るか、それはいかに高い学歴を得るかであり、それはつまり社会に出てから、いかに強固な経済的基盤を得るか、という「手段」以外の何ものでもなくなっている。それにさらに拍車をかけるように、生きる自信に乏しい親が、ただその不安を解消するためにのみ、子どもを毎日のように塾通いさせる。まだ物心つくかつかないうちから、人より多く、人より早く、人よりいかに自分が抜きんでるか、ということばかりに価値が置かれているこの殺伐とした状況は、まさしくこの大人の社会の縮図と言えるでしょう。

 他国に対する侵略の上に築かれた虚構の繁栄。世界のある国では一杯のミルクを求めて小さな子が飢え、またある国では、子どもが肥満や成人病になる程食べながら、なおかつ続く飽食。自分達の世代だけ食うだけ食い、欲しいものは手に入れ、それを消費すれば、後に続く世代にそのツケがどれだけ回ろうと知ったことではないという刹那的・利己的な大人の価値観。一度失えば二度と還ってくることはないどころか、それを消費する過程で出て来るゴミや、人間には処理不可能な、時には人間を死に追いやる程の毒物(化学物質・放射能性物質)は、何の解決の目処も立たないままどんどん蓄積されていく。そんな中で子ども達だけ、潔く、正しく、美しくと望んでみたところで、それは大人の身勝手というものでしょう。少しぐらい大人が殴られたり、手の付けられない悪さを子どもがしたからって、それは現状をよく見つめてみればむしろ正直な子どもの体現、いびつにゆがんだ大人社会に対する、ぎりぎりに追いつめられた人間の“生”の叫び、異議申し立て、と見るべきでしょう。大人はまずそこをしっかり見るべきだ、ということを僕は言いたいのです。そこを安易に通り過ごして出て来る大人の側の子どもに対する嘆きや叱責はまったく的外れであり、それを仮にゴリ押ししても、そのムリが子どもの体を通してもっと強いリアクションとして返ってくることは、この現実が証明している通りだと僕は思うのです。「今の若いモンは」と嘆きつつ、その実、物質、金銭以外に人間の生きる価値、生きていくビジョンを呈示してこなかったのは、実は当の大人達ではなかったでしょうか?

 子どもが親のみの影響ではなく複雑に絡み合った“社会”の中で生きて行く以上、「私だけはしっかり子どもに接しているから。」と言って簡単に済まされる時代ではないと思うのです。勿論そうした一人一人が原点であることには僕も大賛成なのですが、今大切なのは、そうした個人的視点とか事情を乗り越えたところで、過去から現在までを通した規模で、大人がやってきたことを大人自身がまずしっかりと認識すること陀と思います。何故なら、この“現代”という、いろんなところで行き詰まり、方向や希望を見いだせない今、ぽっと生まれてきた子ども達の側からすれば、やはりそうした個人的な次元を超えた圧倒的に強大な流れはウムを言わさぬものとしてあるからです。そのところをまずしっかり認識したら、もし本当に正直な大人だったら、安易に手を出したり、通り一遍の説教したりする前に、まず「ウッ」と詰まると思うのです。「ウッ」っと詰まって何にも言えなくなると思うのです。僕が言いたいのは、今の大人が、あまりにそのことを上手く誤魔化しすぎているのではないかということなのです。大人はそこで初めて問題解決のスタートラインに立ったことになるのではないでしょうか。「ウッ」と詰まって、もう子ども達には何も言えないと認識しつつ、それでもなお、そのカッコ悪さを背負いつつ、身を挺して「でも、そうじゃないんだよ。」と彼等に問いかける時、彼等もまた、本当にその大人を信頼できる大人として認めるのではないでしょうか。それは最も険しく困難な道だとは思いますが、それ以外に方法は、根本的解決はないのではないでしょうか。何故ならもう一方は、力に対して力で押さえつけるという泥沼のような悪循環しかないと思うからです。そういうやりかたは、時には表面的には沈静化したような効果を生むかもしれませんが。その次にはもっと陰惨な、暴力という形はとらない代わりに、もっとしたたかな、それでいて静かに、しかも確実に進行していくような手段を子ども達が取っていくことになると思うからです。

そして、おまえら若い奴らも悪い!

 それじゃあ、最後に、今度は若い奴ら、先生ブン殴ったり、親ブン殴ったり勝手放題やって世の中に迷惑掛けまくっている奴に言いたいと思う。だいたいそうやって荒れている奴は、自分でも何でそんなに荒れているのかわかんないからどうしようもなくなってそうやってるんだろうから、そういう奴には俺は何も言わない。ただ、これを読んでいる奴の中で、もしほんのちょとでもそうしている自分を意識してる自分のある奴がいたら、そこでちょっと考えてほしい。おまえらやっぱし悪いことをしているんだぜ。もじ自分でも悪いこととわかってそうしてるんなら、じゃ聞こう。おまえらがおとなになったとき、今の大人のようにフザケタ大人にならない、今おまえらが顔見ただけでツバ吐きかけたくなるぐらいアタマにくるようなおまえの周りにいる教師や親みたいにならない、完璧な大人になる自信があるか?それでも「俺はそういうフザケタ大人にはならない自信がある!」と言い切るだけの根性のある奴は、そうだ、それだけ立派なおまえなら、そういう大人をブン殴ってこらしめるのもいい。だけど、ちょっとでもそーゆー自信のない奴は、もうそんなバカなことは今すぐヤメロ!なぜかって?そんなテキトーな奴にどうして大人を批判する資格があるんだよ。確かに、自分に身に覚えのない責任まで自分が背負う筋合いはないよな。それこそ、想像を絶するくらいひどい家庭で育った奴とか、もう学校でさんざんバカ呼ばわりされて、人間扱いされてこなかったよーな奴とか、そーゆー奴に言わせれば、「おまえなんかにどうして、俺の気持ちがわかるんだよ!」って言いたくなるだろうな。だけどさ、だからと言って、またそこでひねくれてデタラメやってたら、そいつは、そういうひどい仕打ちをしてきた大人と、いったいどこが違うっていうんだよ。それは口で言う程簡単な事じゃないだろう。とても苦しいことだと思うよ。だけどそこで分かれると思うんだ。そいつが本当に、いい大人になれるか、そこらへんに腐るほどいるイーカゲンな大人になるかが…。

 大人になるってのは、何も二十歳になったからって自動的になれるもんじゃないと思うんだ。自分にまったく身に覚えもない責任を自分が引き受けたとき、そいつは本当の意味で大人になるんだと思う。だって責任、責任って言ったら、おまえらの親や大人だって、いくらでもそーゆーくだらない大人になった責任を、そのまた昔の大人に押しつけることは出来る訳だ。こうなったら、そんな責任なんてどこまでいったってハッキリしないんだ。そのうちに「え〜い、そりゃ原始人の責任だ!」って訳のわからないこと言って、八つ当たりしてたって始まんないじゃないか。だから、自分らが、フザケタことはしない覚悟もないクセに、大人ブン殴ったり、批判しても、そりゃ目クソ鼻クソを笑うのと同じくらい情けないことなんだ。空に向かってツバひっかけてんのと同じだよ。だからさ、少なくとも、そういうのはアホらしいということだと感じる奴がいたら、今でも遅くはない。自分も大人の仲間入りして頑張れよ。少なくとも、人間年取りゃ取るほど気力もなくなってショボクレちまって、放っておいたって、面白くもなんともないオジサンになっていくんだから。若いうちは、ギンギンにつっぱらかってるぐらいでちょうどいいのさ。どうせショボクレるんだったら、最初っからショボクレている奴より。存分イタメつけられてショボクレた奴の方がいい大人になるだろうからさ…。

 最後に、これで一応「高校生のこれが言いたい!」シリーズは終わりになる訳だけど、いっしょにいろんなこと話してきた高校生のみんな、別にこれですべて終わった訳じゃないんだから、また掛川の町ン中で会ったら、いっしょに何かおもしろいことやろうな。とにかくまだまだ先は長いんだから。の〜んびり、じっくり行こうじゃないの!お互い後ろを振り返るには、まだまだ早いだろう。なーんてカッコイイセリフが決まったところで、それではみなさん、さよう…あ!そうそう。永倉さんと和子さんにお礼言わなくっちゃ。いつもいつも、まったく内容に一貫性のない座談会にもめげず、シコシコとテープを編集して下さったり、話で声をからしている僕たちに、日夜お茶を出して下さってどうもありがとうございました。今度遊びに行ったときには、アメリカンでいいです…。それでは今度こそ本当に、みなさん、さようなら!