いじめの環境
Vol.61 1985.4月号掲載 
いじめと集団と犯罪

東A◆私の友人が浮浪者が怖いって言うんだけど、以前、横浜で浮浪者が中学生に殺された事件で、中学生が14才になっていなかったから殺人をしても、あまり重い罪にならなかったという事があった。そんなこと大人がやったら重大な罪になると思う。中学生でも十分物事の判断がつくんだから、大人と同じ刑罰を課してもいいと思う。そういうことをしない限り、いつまでも罪の意識を持たないし、罪とか悪いことをいつまでも理解できないと思う。
高橋◆これが悪いことだということを教えないと、図に乗るということだよね。
東A◆だから、そういう中学生は一度こらしめなきゃだめだと思う。
高橋◆他の衆はこのことに関してどう思う?
東B◆その中学生は罪の意識はなかったと思う。それがあるんだったらやらなかった。法律的にもその衆らの罪が考慮されるのはしょうがない。未成年だし、将来もあるから…。
東A◆そういう風に甘えさせているから、犯罪が低年齢化してきているんじゃない。
高橋◆ちゃんと罰を与えないもんで、調子にのっているということだな。俺はさ、あの中学生が一人だけだったら浮浪者を殺さなかったと思うんだよ。集団になるといじめるという意識が出てくるんだと思う。いろんな環境もあるから、ただ単に罰を与えて懲らしめるだけでいいのかな。その辺はどう?
東B◆全体に言えることだけど、今の若い人たちって、上から押さえつけられているから欲求不満がたまっているでしょ。そうするとさ、自分よりも弱い者をいじめると、欲求を発散させることができるから、いじめをやると思う。自分を取り巻く押さえつけられる環境がどんどん狭くなったから、余計にいじめが出て来ると思う。
東C◆私は、怒られるからやらないとか、罰せられるからやらないという感じじゃなくて、これは悪いことなんだとか、やってはいけない事だというのを、本人がわかってないと、ただ罰を与えるだけでは、それが過ぎちゃえばまた悪いことをする。
高橋◆あの中学生は「死」というものを考えたのかな。おそらくその仲間の一人でも、死というものはどんなものかを考えていたら、あのようなことは起こらなかったんじゃないのかな。おそらく中学生になるまで「死」の悲しみとか「殺す」ことは罪悪であるという観念が育っていなかったと思う。
東A◆中学生は浮浪者は街のクズだから正義感で掃除をしたと言ってたらしい。他の大人や住民達も、浮浪者はどこかへ行って欲しいと思っていたらしい。私はそれも、一理あると思う。
東C◆それは、ほとんど言い訳だとおもう、後からくっつけた。
高橋◆だけどさ、いくら正義のためだと言ったって、殺すことはおかしいぜ。
東B◆うん、やばいよそれは。

小・中学校のいじめ、高校のいじめ

高橋◆俺はさ、中学生もそうだけど、「いじめ」というのは弱い者に向かって行われるじゃん。例えば、動作がのろいとか、気にくわないというだけで、いじめがはじまる。でもそれは単に罰を与えるだけで直るもんじゃないと思うんだ。東Aさんは、罰を与えないとダメだといったけど、その点はどう?
東A◆だから、そういう行為をしたんなら、同じ様な苦しみを人生経験として、知らせなければいけない。いじめにしても何か手を打たないと、いつかは自分らに回ってくるから。
東B◆それは言える。私も中学一年生の時、ものすごく弱い者いじめをする子がいて、はじめはみんなわからなくて、その子と一緒になって弱い者いじめをしてたんだけど、二年、三年になって、みんなわかってきて、その子が逆に孤立化しちゃって仲間はずれになっちゃった。学年ぐるみで「あいつは弱い者いじめばっかしていて」ということで、わからせるようにした。
高橋◆中学や小学校だとかなりいじめの問題が出ているけど、高校ではそういうことある?
東D◆いじめというか、無視しているということはあるみたい。
高橋◆でもさ、無視されるということは、一番いやなことじゃないかな。言われるより効果が強いと思うけど。
東A◆そういう陰険なやり方は女だけだと思っていたけど、実際は男にもあるみたい。ある男の子が、あいつ気にくわないからみんなど無視しようぜって言って、本当に無視されて、それが皆に広まった。
東B◆あのさ、S君という男の子がいて、すごく仲間の中で権力持っているんだけど、実はその子を取り巻く周りの衆は、S君が嫌いで、本人に気づかないように無視したり、相手にしないようにしている。その学校の男の衆は、気にくわないのがいると「お前、明日までに髪の毛を切ってこい」と言って、切ってないと、殴る蹴るや大変なんだって。
高橋◆それ、高校生だろ?高校になってもいじめがあるの?
東A◆私はさ、男っていうものは、すごくさっぱりしていて、何かあれば話し合ったり言い合って終わりっていうものだと思っていて、俺は男だっていうイメージだったんだけど、この頃は違うんだよね。その昔さ、柔道部員で仲間に目の玉えぐられて殺された子の話したけど、その家の人は「うちの子は他の人に恨みをかわれるようなことは何一つしていません」と言っていたけど、その実その子は学校じゃいじめの張本人で、クラスの二人をいじめ抜いていたわけ。だからその二人に惨殺された。でも女の場合はそうはしない。陰険さはあるけど…。
高橋◆こういう風に言うと偏見かもしらんけど、女の子っていうのは、よく集団でいろいろやるじゃん。それは、なかなか一人になれないというか、一人じゃ考えることができないじゃないかなと思う。こんなこというと仲間はずれになるとか思って、行動に表せないじゃないの?ところが、男の方も、最近では集団でないと何も出来ないようになってきたんだよね。
東D◆女性化してきてる。
東A◆なんでだいねぇ。
高橋◆掛工の衆はどう思う?いじめとかに関しては。
掛A◆俺の中学校の時には、校内暴力が全盛だったけど、いじめもあった。成長しない子がいて、身体が弱いからいじめの対象になっていた。
高橋◆その子はどのようないじめにあっていたの?
掛A◆先生しかかばってくれないから、男子も女子も大多数がいじめた。特殊学級にいけばいいってみんなが言っていた。
高橋◆たとえばその時、校内暴力でもいじめでも、なにか「罰」があったなら、自分はやらないと思ったかな?
掛A◆それはないと思う。校内暴力で先生を殴ったりというものは、その先生が悪いんだから、生徒の不満をぶつけられてもしょうがない。
東B◆罰を与えないというよりは、そういうことをしないように押さえつけられているから、余計にはけ口を弱い者に向けて無抵抗な者に、ワ〜ッと言う感じで襲いかかるんじゃないかなと私は思う。
東A◆私はさ、中学生になる前に、さんざんやらしておけばいいと思う。ここまでやれば鼻血が出るとかを、感覚でわからせてやらないと、あればダメ!これはダメ!で小さい頃から育ってしまって、中学生になって第二反抗期をむかえると、限界がわからないもんで大変な事に発展しちゃうじゃないの。
高橋◆中学生くらいにになれば、人を殺す事が悪いことだ位わかっていると思うよ。でも何かの拍子に、集団になるとわからなくなっちゃうのかな。
東A◆経験が無いからだと思う。たとえば自分が可愛がっていたネコが死んで死の悲しさがわかったり、兄弟がいなければ兄弟ゲンカもできないし、だからここまでだということが理解できない。
東D◆私もそう思う。幼稚園のせんせいが、園児同士のケンカをやっていて、片方がやられっぱなしになったりしたら、そこでケンカを止めさせるとか聞くけど、そういう体験は大切だと思う。
高橋◆現実はさ、人を殺してしまうまでに中学生がエスカレートしている。数年前までは、校内暴力で生徒が先生を殴ったりしていて、現在はいじめが問題になっている。これは生徒の不満がものすごくたまっているということだと思う。その不満がいじめであったり、先生を殴ったりという表現手段をとる原因だと思う。そこで大人達が罰を与えたらどうなるのか!?
東A◆やめっこない。その不満を解決しなければダメだら。
高橋◆その不満って何だろうね。いったいどこから来るのか。世の中どこか狂っていると思うから、罰を与えたくらいでは解決しないと俺は思う。
 今回はこれで終わるけど、このことはこれからもみんなに関わってくる問題だから、またの機会にもう一度じっくりと話し合ってみたい。また、みんなも友達とかで、もう一度話し合って欲しい。



 今回の話し合いを編集のためテープで聞いていて思ったことは、いじめや校内暴力も生徒の学校に対する怒りであり、同時に家庭の親たちにも原因があると感じた。生徒会でも生徒の要求がちっとも通らない。先生に相談しても解決しない問題。何をするにも許可がいるし、ほとんど強制に近い事柄ばかりが生徒を取り巻いている。親たちは、負けるなわが子とばかりに「勉強しろ」とけしかける。また、子どもに対して無関心な親が居るのも事実だ。
 このような状況の中で、生徒に不満が生じない事の方が不自然である。今では学園紛争みたいな怒りは無くなり、それが内面的な憤りになってしまったのも事実だ。言葉だけの民主主義の中で、生徒はあきらめに近い状態の中で憤り、我慢しているのではないだろうか。熱心に考えてくれる先生も居るというが、生徒の要求すらも聞き入れない先生が多いのと、何があっても学校へ要求や改善を求めない親や、そうさせている社会的な環境、ましてや教育委員会までが民主的に運営されていないとなると、生徒と先生と学校と親、そして地域社会との溝がどんどん深まるばかりである。いくら街に補導員が出てガンバッても、服装検査しても、無駄なことに思えてならない。PTAがどのように取り組んでも今のような考えで居れば、真理を求めたい生徒の要求にかなうはずがなく、権力に頼れば頼るほど、生徒との溝が深まるばかりだと私は思う。
 もう一つ例を挙げれば、二年前、県に婦人青少年課というのが設定された。青少年健全育成をめざして知事部局と教育委員会、警察本部が協力し合うというものだ。この威圧的な、支配的な考え方で健全(?)教育が、本気で出来ると思っているのだろうか。私はこのことも生徒に対する権力の大きな「いじめ」であると考える。生徒は学校の規則でもうんざりしているのに、社会ぐるみで威されたらどうなるのか。生徒の要求や批判から逃げ回ることを止めることから始めてほしい。
(永倉 章)