1700年前の遺跡発見「大六山」
Vol.36 1983.3号掲載 
上張から東に、新幹線沿いに向かっていくと、ちょうど新幹線の線路の上を渡っていくようになっている所がある。その右手の山の上で、約1700年前の遺跡が発見された。そこは緑が丘団地のすぐ横(満水)にある標高70〜80mの小高い山で、その名を大六山という、茶畑の跡である。


永禄11年(1568年)から天正9年(1581年)の大東町の高天神城落城までの間は砦として使われていたが、これらについては、すでに江戸時代からわかっていたそうで、1700年程度前の遺跡だったことは、昨年になってわかったことである。この遺跡調査後は組合化学の研究農場が出来ることになっている。

まだ調査途中のため、はっきりしたことはわかっていないが、「たぶん、20軒くらいの住居が建っていたのではないか。」と調査を担当している岩井さん。(岩井さんは市役所の社会教育課の方です。)

弥生時代は、小単位のグループが集団になって生活をしていたことは皆さんご存知のとおり。生活のためには稲作をやったり、狩りもしなけらばならなかった。そして、ちょうど集落同士や地域間での争いが盛んだった動乱の時期でもあったため、お互いの生活を確保するのに一番条件のよい土地で、なおかつ敵の様子を監視できる場所を選ばなければならなかった。そういった意味で、この大六山はすべての条件を備えていたようである。
後に、砦として使われた位だから見通しは最高にいい。掛川の東西南北が一望に見渡せる。

山の上に集落を作ることを高地性集落といい、弥生時代の末期ごろには高地性集落が多く、その遺跡は全国にあるそうです。掛川にも、標高80m内外の高いところにある当時の集落はたくさん有るそうです。ただ、この大六山の場合は、墓地群と集落がはっきり分かれているので珍しい遺跡なのだそうです。

そして、ここの集落は、弥生時代(1700年位前)から天正9年(400年位前)までの長い間、ずっと歴史が繋がって居たのではないか、という見方もされています。




長い歴史を培ってきたものも、自然の風化作用でいつの間にか消えて行ってしまう運命にある。しかし、茶畑の中から遺跡を見つけ出してしまうのだからすごいですね。土の硬さとか微妙な土の色の差を見分けながら穴を掘っていく。柱の立っていた穴や、火事で焼けた住居などもすぐにわかるんだそうです。そればかりか、火事になったときの風向きまでわかってしまうのだそうですよ。大六山でも火事の跡がはっきり残っているそうです。それは一軒の建物の広さが2間半(約4.5m)×2間(約3.6m)位で、5〜6人は十分に寝られる広さだそうです。

                  (文:やなせかずこ)