関東大震災体験談
Vol.35 1983.2号掲載 
1960年5月21〜22日のチリ地震で発生した津波が宮城県本吉郡志津川町に押し寄せた。(5月24日午前4時35分、志津川病院 千葉澄夫さん撮影)毎日グラフより
東海大地震が予期されている。しかし、いざとなると冷静な行動をとれる人間はどれほどいるのだろうか。大正時代と現代とは多くの状況が異なっているが、当時の震災を体験された滝の谷の塩沢文造さんは語る…。(写真はチリ地震の時の様子です。関東大震災とは関係ありませんが地震の恐ろしさを伝えるために掲載致しました。)



今年の9月に大地震がやってくると騒がれているそうですが、何年か前にも御前崎沖で、いまにも地震が発生しそうなデマが流れ、防災用具を揃えたり、食料を買い込んだ人も多かった。(カンパンが異常に売れた。)幼稚園でも防空頭巾を揃えて地震に対する訓練を行っていた所もあったが、いつの間にか立ち消えになったと思ったら、今度は富士山の大爆発説である。「天災は忘れた頃にやってくる」そうだから、いざとなった時には、慌てず冷静な判断を下せるよう心がけることが一番大切ですね。

今月号では、大正後期の「関東大震災」を目の当たりで体験された、掛川市滝の谷の塩沢文造さんに当時の模様を語って頂きました。

一番恐ろしいのは「デマ」


大正12年(1923年)9月1日の昼飯時に突然襲ったマグニチュード7.9の大地震は、瞬時にして多くの家屋倒壊と犠牲者を出した。当時、関東地方に住んでいた塩沢さんによると…、

「地震が襲ってくる約30秒前ぐらいに、風速何十メートルという突風が吹いた時の様な、ゴォーというものすごい音が響きわたり、皆が一斉に聞き耳を立てていた瞬間に揺れ出しました。当時6才の私が手を伸ばせば、軒先に手が触れるほど家が傾き、その後の絶え間なく襲ってくる余震の恐ろしさは体験した者で無いとわからないでしょうね。」

「夕暮れにもまだ余震は続いていましたが、時間の間隔が長くなってきたので、ようやく家の中に入って貴重品や、当座の生活必需品を取りに行けるようになりましたが、それでも、一品づつ持ち出すのが精一杯で、食事らしい食事をしたのは、2日目の昼頃からだったと記憶しています。」

「当時、農家には必ず設置されていた肥溜めの汚水は川となって地面を這っていました。その後も余震は5〜6日間続き、ずっと野宿の生活をしました。」

「最初の地震で屋根瓦の重い家は屋根の重さで傾き、完全に倒壊するのは、その後の余震で倒壊することが多いですね。だから、余震の方がよけいに注意しなくてはいけません。」

「それから、地震で最も恐いのはデマですね。関東大震災の時は、隣の村まで朝鮮の人達が集団を組んできたとか、労働運動家の人達が暴動をおこして、すぐそこまで来ているというようなデマが飛びパニック状態が続きました。(※1)大地震が発生したときは、さまざまなデマがとぶと思いますけど、絶対に信じてはいけません。」

「また、その反面、日常生活では得難い美談などもたくさんありました。私のおじさんなども、東京で大きな料理屋をしていましたが、ありったけのお米を炊いて、おにぎりにして通る人達に配ってあげたそうです。2〜3日連続でやったら、6俵だか炊いてしまったそうです。着る物なんかもみんなで分け与えたりしたそうですよ。」


関東大震災より被害の大きかった東南海地震


この近辺では、関東大震災よりも、昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海地震の方が被害が大きく、袋井の国道沿いや、菊川町、小笠町の地盤の緩い所では、軒並み家が倒壊したようである。この時、日本は敗戦が色濃くなった戦争末期でもあったため、軍は戦う意気込みが低下するのを恐れて、厳しい報道管制を行って、地震の詳しい情報を教えてくれなかった。

掛川でも、かなり倒壊した家があり、倒れた家の復旧にはかなり手間取ったようである。傾いた家をジャッキで持ち上げて、その間に柱を入れただけの修繕や、二階屋で一階を取り除いて二階だけになった家もあったようだ。

学生は授業の途中で帰され、途中の無残な状況を見て泣きながら帰ってきた小学生もいたそうだ。正月を前にしたこの地震で、翌年は暗い年明けとなった。




さて、昨年の街中を覆った大水の時もそうでしたが、突然なんの前触れもなくやってくる天災だけは、人間の力では為す術も無い。それに加えて、もし関東大震災のような大きな地震がきたら、いったい浜岡の原子力発電所はどうなるのか?大丈夫だという保証はなにもない。天災に加えて人災が加わり、とてつもなく大きな被害になりそうである。これは天災よりももっと恐ろしい。いくら防災訓練通りに避難しても、放射能から逃れようもないのである。

                 (文責:やなせかずこ)
チリのコンセプシオン市のビオビオ川の大橋はみごとに真っ二つになってしまった。(UPI 毎日グラフより)
ハワイのヒロ市の下町中心部もチリ地震の津波の被害に遭った。(UPI 毎日グラフより)
※1 関東大震災の混乱の中で、さまざまなデマがとび、なんの罪もない多数の朝鮮人や労働運動家の人達が、パニック状態の中でデマにおどらされた自警団によって、虐殺が各地で行われた事件のこと。