あの街この街読者レポート「大多郎」 寄稿:石山兼三郎さん(61才)水垂563-2 
Vol.17 1981.8号掲載 
大多郎全景(手前は掛川バイパス)
ダイタロウ?

「おじいさん、ダイタロウってどこだね?」
「何?ダイタロウじゃなくてオオタロウっていうんだよ。どこへ行だね?この辺には昔からの大多郎と掛川市大多郎とあるでのう。」
「おじいさん、知っているかい?レターハウスってすばらしいタウン誌を作っている所なんだけど…。」
「ああ、知っているよ。あそこに見える送電線の鉄塔を左に曲がると赤い看板が出ているで、すぐにわかるよ。」
「ありがとう。でも大多郎って新しい地名だね。」
「あんた、もし急がにゃ大多郎の話をせっかのう。わしは無職の暇人だで…。


昔は、山と田んぼ。今でも野兎が民家を横切るときもある。

大多郎というのは、北池の所から水垂ひ入る水垂一号線道路が走っている。その道ぐろに一軒だけ「かごや」という店があるんだが、その横から西山口へ抜ける道があって、50メートル位行と、山ぐろに小さな川が流れている。川といってもごく小さなもので、水の淀みはあっても、雨の日か田んぼへ水を引く時にだけ流れるといったものだ。そこに、手摺りもなにも無い板橋で「大多郎橋」という橋が架かっていた。それから南の谷が大多郎さ。

道の東は山。細い田んぼがあって、西側も山ばかり。山と言っても雑木林で、野兎や山鳩の出るようなところで、サガ(傾斜地)茶畑があるという風景さ。道に添って家が三軒だけ、そのうちの一番大きい家(榛葉じゅん一宅)を家名で大多郎と言った。先祖で大多郎という人がここを開墾して、その名が付いたのかも知れんのう。(じゅん一のじゅんは、金偏に享の字をを合わせた文字)

そんな土地だったが、昭和47年(1972年)、48年頃、道の東側一帯が県営団地になるという話が出てきた。それと同じ頃、サガ茶畑では仕事がしにくいで。「農地造成をやろう」と一部の人が計画した。所が、もっと広くやれば区画整理方式でやれて助成もあると、市からの指導があった。西側全部、西山口境まで含めることになり、約七万平方メートル位になり、雑木林や茶畑を削って田んぼに埋め立て平らにした。大半が畑で、その中に宅地もつくった。中電の送電線も同じ時期に作られた。昭和49年11月に作業を始めて昭和51年に完成した。道路もろくにない所に、何本も舗装道路ができ、市の水道もはいった。


大変貌をとげて宅地造成、そして住宅地に。

こうした区画整理をやると、土地台帳の地名も変更され、昔の小字が大字になって「掛川市大多郎」となった。昔からの三軒の家も今では六軒になったが、県営団地からも区画整理からも外されて、島のように残って大多郎と言っているよ。大字大多郎は水垂で一番環境が整備されて、県営団地に次ぐ住宅地となっただよ。

昭和52年の夏頃、一番先に土地を買った人が宅地造成をした。今ではどんどん増加して34軒。隣組も三班になった。10年前を知っているわしらにゃ夢のようだよ。また、掛川バイパスも通るようになったしのう。ついでだか、県営は葛ヶ丘といって、水垂から離れたが、大多郎はまだ水垂区に入っているよ。

年寄りの長話でごめんのう。ひまをとらせて…。
「そうでしたか。それじゃあ、この話をレターハウスに行って話してやろうか。どうも失礼しました。」


※中見出しは編集室による。本文中、榛葉じゅん一さん方を大多郎と呼ぶのは事実で、昔庄屋であったのは確かです。大多郎という人物については石山さんの想像であって確証ではありません。
大多郎西公園にある区画整備完成の記念碑(昭和52年11月完成 当時の市長は榛村純一さん)