Vol.78 掲載 1986.9
拘禁・戦争・解放
 戸塚 廉 掛川市家代
有名な上海のガーデンブリッジ。上海は国際都市だから蒋介石の勢力の支配力は弱く、蒋介石の反対派の自由主義者はここに集まっていた。日本の進歩的な政治家、文化人など日本に居ればつかまるような人が、多くここに集まっていた。ここから北へ二,三分歩くと日僑自治会の事務所があった。
十六年(1941年)十二月八日の米英との開戦の朝は、拘置所の外で楽隊が鳴り、バンザイの声がきこえる。とうとう蒋介石や毛沢東も手をあげたかと思ったら、終戦ではなく開戦だった。

最初の東京空襲の時は、遠くの房からガチャンガチャンとドアの取手を動かす音がしているので、どこか安全な防空壕へでも避難するのだろうと思ったら、ドアが開かないようにカギをかけていきやがった。徳川時代でさえ、牢屋の火事の時は翌日帰ることを約束して釈放したというのに、おれたちを焼き殺すつもりかとハラワタがにえくり返った。

十七年八月三日に保釈出獄して、十一月二十七日に裁判を受ける予定だったが、二十四日に入隊せよという召集令状が来た。

十二月四日に静岡連隊を出て、上海の軍司令部の兵隊になり、敗戦まで三か年半の間に、射撃演習で五発打っただけで、全然戦闘というものをしないという申しわけない楽な兵隊であったが、静岡駅を一汽車前に出発したイトコの小沢英雄は、ガダルカナル島に上陸するとすぐ、その場で戦死したという。

治安維持法でやられた人間が軍隊に入ると、非国民とか国賊とかいって半殺しの目にあうことが多かったといわれるが、私はまったく運がよく、入隊するとすぐ憲兵が来て事情聴取したが、それを人事係の准尉に報告したら、「ナーニ、お前は人間としてやるべきことをちゃんとやっただけじゃないか、憲兵はこれからも来るだろうが、おれが話してやるから安心しな」と言ったのには驚いた。

わたしは大正十三年(1924年)に五か月兵隊をやっているし、剣道の有段者だから銃剣術もうまい、青年や消防の教練の指揮をしているから号令もうまい。何をやっても一番だが、治安維持法の被告を一番で昇級させるわけにもおかんからだろう、准尉さんはわたしを五十人の炊事班の軍属の班長に任命した。これまで曹長にやらせたが、うまくいかんからお前やれという。

曹長は二等兵より位が五つも上だ。「曹長はいばっているので、出刃包丁をもって世間をわたり歩いた料理人は反感をもってうまくいかん。酒をのんでケンカしたり、塀をのりこえて町へ酒や女を買いに行く連中だ、お前にまかせるから、しっかりやれ」という。

料理人はその日の一番いい材料で特別食を作って食べる。わたしも一しょに食事をして仲良くなれと准尉がいう、わたしは敗戦まで毎日、将校なものごちそうを食べてよく太った。

食堂の給仕三十人くらいの私の班員たちは、食事と食事の間に用のない時間が多いので、宿舎でバクチを打ったり不良化していた。そこで私の「先生」が出る。長時間の大説教を食らわせ、日給取の彼らに少しずつ金を出させ、上海の町で書店を開いている内山完造先生に事情を話して、おもしろい本を安くしてもらって、軍属の読書会を作った。

十八年の秋から二十年の春までは、上海と南京の総司令部の間を数百通の重要な軍事文書を運搬する係になり、上海でも重要機関や商社に文書を送達する。いつも公用外出証をもっているから南京と上海は、そこに住む人よりよく知っているほど見物することができた。一昨年この二つの都を訪ねたことは前に書いた。

二十年(1945年)八月敗戦。九月には、新たに上海居留十万の日本人の民主市役所のような居留民自治会によび出されて、教師たちに民主教育を教え、子どもに新聞や教科書を作る教育課長をつとめて、二十二年五月、十三年ぶりでふるさとに帰り住むことになった。

(完)