Vol.77 掲載 1986.8
帝国農会と刑務所
 戸塚 廉 掛川市家代
帝国農会から二分歩くと、このころできたばかりの五階建てのビヤホール・ニュートーキョーがある。埼玉県の大地主の青鹿課長は土旺日には課員を誘って、いくらでものませてくれる。そこから二分あるくと銀座である。たまには妻子が銀ぶらに来る。
帝国農会は全国の地主が作っている町村や郡・県の農会の総元締めだから、さぞ封建的なところだろうと思ったら大ちがいで、明治以来の地主制度がつくり出した日本の封建的な政治の改革のため地主の所有地を小作農に安いねだんで解放しようと役職員が努力している団体であった。

もちろん地主はそれに反対だから、戦争の力を逆用して地主にウンといわせようというのである。戦争のためには食糧を増産しなくてはならない。しかし、いくら働いても、とれたお米の半分を地主にとられるのでは農民は増産にはげむはずはない。農地が自分のものになれば。余計にとれば収入がふえるから、努力し工夫し金もかけて働く・だから地主はお国のために農地を解放せよ、というのだ。

後藤宗一郎さんは、掛川駅前の富士屋旅館の息子だが、大学を出ると共産党で活動して、三・一五事件でつかまった人。わたしの叔父と同級の親友だから、わたしは小学生時代からかわいがってもらった。帝国農会の幹事長はマルキシズムの理論で岩波全書の「日本農業史」を書く東浦圧治、課長以下みんな進歩主義者であった。

日本農業新聞の取材で、新潟、千葉、兵庫、九州に出張する。何とも楽しい仕事場だったが、一年半たった十五年(1940年)の十二月四日、警視庁の特高がドカドカとやって来て。十七年八月まで、わたしを講談社のとなりの大塚警察署のブタ箱と西巣鴨の東京拘置所に拘禁した。

「生活学校」は、人民戦線の反戦運動だというのだ。ここの生活の悲喜コモゴモはあと一年間書いてもつきないが、残念ながら、この文章はあと一回で終わらねばならない。

                ◇◇◇

わたしはどこへ行っても「先生」になる悪いクセがある。留置場の番人をしているおまわりさんは、早く最低のつとめからぬけ出て、金筋一本つく十佐部長になりたい。だから部長試験を受けるために勉強している。

わたしは彼に算術を教え国語や歴史を教えてやり、試験前には「戦時下における警察官の覚悟」などという作文を書いて暗記させる。彼等は喜んで、ドロチャンやカッパライを早く寝かせて、わたしだけを彼等の休憩室にさそって、オシルコや菓子をごちそうする。

ドロボーなどがつかまって来ると、わたしは彼等の不心得をさとして、コンコンとお説教する。刑事がどなりつけるよりも人情がこもっているから、軽犯のチンピラなどは心から後悔して釈放される。彼らは喜んで、差入屋にたのんで大きなナマのサバとか、むし菓子などを差入れるので、四つのブタ箱の一同にわけてくわせる。住めば都である。

                ◇◇◇

十六年の七月に起訴されて、被告と呼ばれて未決拘置所に入る。五メートルもありそうな高いコンクリートの塀の、高さ三メートルもある鉄の扉の中へガャーンという音を聞いて入るのは、あまりいいものではない。

ここで丸ハダカになって八か月ぶりでフロに入り、フンドシまで青い獄衣と、同じ色のフトンをもらって個室=独房に入る。広さは間口一間、奥ゆき一間半、ブタ箱と同じだが、クリーム色の壁、畳二畳、あと一畳分が水洗便所と洗面所と机と腰掛けと押入れに、うまく作ってある。釈放されたら、こんな部屋を作ろうなどと思う。次の日には、ブタ箱のシラミなどを消毒した自分のキモノが入り、フトンが自宅から入る。

あとは十七年八月まで、読書と手記(事件の経過の記述)と手紙書きと瞑想。私の一生涯の全読書の五分の一くらいはここでなされただろう。
(つづく)