Vol.76 掲載 1986.7
戦争はじまる中で
 戸塚 廉 掛川市家代
釧路原野の町へ行く釧路の鉄道馬車(昭和12年8月7日撮影)
読者の三分の一が住む東北・北海道をまわって、創刊当時、野村芳兵衛先生に期待して集まって来た読者が、この一年間にわたるきびしい論争をとおして、わたしと、私をとり巻く、かつての非合法マルクス主義教育運動者の考えを、強く支持するようになっていたことがわかった。

そのことを編集協力者の友人たちに話して、「新しい出発にあたって」という巻頭論文と東北、北海道めぐりの報告で特集号を作った。児童の村時代には遠慮していた仲間も筆をそろえて論陣をはった。もちろん非合法時代のようなものではなく、封建主義と戦争に反対する、誰が読んでも反対のしようのない、しかもおだやかな筆誅(ひっちゅう)である。

読者との気持ちが強く結ばれて翌年四月には、雑誌にのった読者のすぐれた実践に、読者が投票で受賞者を決める「生活学校賞」が設定された。ついで五月には、わたしが企画する単行本は必ず買うという「必読会」が出来、全読者の三分の一の二百九十一人が入会した。

そのころは、書物は一千部売れば多少もうけが出て、赤字の雑誌をおぎなうことができた。だから、三百人近い人が必ず買ってくれれば、思いきって出したい本を出版することが出来た。

7月になると日中戦争の始まる中で北海道の綴方の会が、昨年九月から雑誌の顧問になってくれた。法政大学教授の城戸幡太郎先生を講師として、わたしと「生活学校」の編集協力者の松本と黒滝両君をお客さんに招いて、道東の根室、阿寒の奥への講演旅行をさせてくれた。

山形の国分一太郎君が結核でたおれたというので、北海道へ行く前に、その病院をたずねて国分の先輩・村山俊太郎と相談して、国分の教育記録を出版して、貧乏な床屋さんのセガレの闘病資金を作ることにした。

ところが、この友情がアダとなった。この本「教室の記録」の出版記念会で出席者がサインして著者に贈った本に、プロレタリア作家の徳永直の名があったことが理由で、国分とその共著者であった恋人・相沢ときさんがクビになってしまったのである。

国分は若いながらも日本一の作文教師として有名だったから、彼が「生活学校」の関係でクビになったと聞くと、東北地方はもとより全国の読者がガタガタと雑誌の購読をやめる。十二年(1937年)にはじまった戦争が広がり、国家総動員法が出されて言論統制は極端にきびしくなって、十三年八月には、ついに「生活学校」は廃刊しなくてはならなくなった。

妻の兄が、今の講談社の前身の大日本雄弁会講談社で「少年クラブ」の編集長をしていたので、そのすすめで講談社に入社した。この出版社は封建思想と軍国主義の雑誌を「キング」、「講談クラブ」をはじめとして、八種類も出している。わたしの教育文化活動の仲間にとっては、まさに最大の敵である。

入社させてくれた義兄には申しわけないが、社員の雄弁大会、新年会、編集会議で、「少年クラブ」「少女クラブ」「幼年クラブ」などの子ども雑誌を具体的にてってい的に批評し、新入社員の実力調査で書かされる、「社長様御講演集拝読後の感想」という文章で、会社員が十三時間労働を強制されている社風を八時間労働にせよとの改革論を書いて、半年あまりで辞表を出し、掛川中学の先輩の後藤宗一郎さんのすすめで、彼の働いている帝国農会に入った。
(つづく)