Vol.75 掲載 1986.6
お豆腐屋さんの教育運動
東北四県の十四日間(二)
 戸塚 廉 掛川市家代
お豆腐屋さんの家の北方教育社。左から松永健哉、黒滝チカラ、佐々木昴(秋田のサークルの指導的教師)戸塚が撮影。
八月十七日。高野長英の墓におまいりする。長英の墓は幕府をはばかって後向きに立ててある。粗末な自然石である。分教場にも来てくれというので、また一時間ずつ話す。昨夜来た黒滝君と四人になる。

終わってふたたび東北線を北上、黒沢尻(今の北上市)から秋田県の横手に向かう。東北山脈のいくつも鉱山の見える山地を抜け、荒地にヒエの植えてあるのを見て、ヒエを常食にしているという東北農民の苦しみを感じて行く。

秋田市ではまず北方教育社に迎えられた。北方教育社の社長はお豆腐屋さんである。成田忠久というお豆腐屋さんが、学校の教育に疑問を抱いて、若い熱心な教師を呼びこんでは、本当の教育って何だろうと話し合い、お豆腐の看板の代わりに、北方教育社という看板を掲げた。ここから、日本の暗い谷間といわれた昭和初年の教育に光を投げかける北方教育運動がはじまった。

おもしろいことに、これが掛川第一小学校で牧沢伊平は提案して中村信一、佐藤金一郎、尾上文一郎、中田藤作に一番年下の戸塚廉、掛川第二小の粂田英一が加わって、小笠郡の教師に活を入れ小笠を民主教育地帯にしようと「耕作者」という新聞を発行したのがその次の年であったのである。

日本教育学会会長の大田堯さんとお茶の水女子大学の教育学部長中内敏夫さんの作った民間教育運動史事典には「北方教育」も「耕作者」も地方の民主教育運動の先駆けとして高く評価している。

所で、松永、黒滝、戸塚は焼き豆腐や油揚げで秋田の銘酒「太平山」を呑んで泊まり、翌日は秋田県立図書館で討論。「生活学校」の旅行記には「精虫のような秋田人」というみだしがついている。おっとりした北海道、鈍重な岩手人と比べて、秋田人が頭のするどさ血のめぐりの早さ、そういう人のおびただしさを精虫のようだと感じたのであろう。

ついで秋田県日本海岸の金浦港で文化講座。町の公園で、町民男女と教師と子どもに話せというのにはホトホトまいった。気持ちのまとまらない戸外で老人から子どもまでふくめておもしろい話しなんか出来るはずはない。大急ぎで切り上げて紙芝居で何とか興味をつなぐことが出来た。

次は山形県。国分一太郎君のつとめている東根町の温泉にとめてくれる。貧乏な床屋のむすこの国分君が、こんな温泉旅館の払いが出来るかと心配したが、校長先生が非常にいい人なので、子どもたちに話しをしてもらって旅館と交通費は負担してくれるという。

お湯の出てくる所は手をふれておれないほど熱かった。国分君がそのお湯を口に受けようとするので、「あぶない、口がこげるぞ」というと、笑って、「やってごらん」というので恐る恐る口をつけたら、手で受けた感じよりもずっとぬるく、平気で呑みほすことが出来た。あついものに対する抵抗力は、手よりも舌や口の中の方がずっと強いのをはじめて知った。

東根小学校の子どもたちに話し、天童町の学校で山形のサークルの人たちに話し、全国の将棋の駒の大部分を生産するという工場で、子どもたちが駒の字を書いて小遣銭をかせぐのを見る。

山形からトンネルで東北山脈をこえて宮城県の広瀬村に入り、宮城の作文サークルの集会に出る。病気で鈴木道太君がいないのが淋しいが討論はりっぱだったし、この学校の用務員さんの民謡「さんさしぐれ」がすばらしく、呑むのを忘れて教えてもらい、わたしは「人生案内」の浮浪児の歌を教えた。二十五日夕方仙台に出て、仙台工場のキリンビールで乾盃、夜汽車で東京に向かう。
(つづく)