Vol.74 掲載 1986.5
高野長英と「今長英」
東北四県の十四日間(一)
 戸塚 廉 掛川市家代
高野長英画像(椿椿山筆)
左より戸塚秋子、永井庄蔵、永井の妻
(昭和十一年/1936年)「八月十二日。夜があけると間もなく函館だ。洋上無事。青森駅ですき腹にソバを食って国分君と別れる。横山真君(道東厚床小学校の教師)に『人生案内』の歌を口授したりして、夕方盛岡につく。松永君が来ている。」

自由と民主と平和を腹深く秘めた教育を六県にわたってくり広げている同志たちとの集会はここから始まった。四年後に反戦反封建の人民戦線運動として東北六県・北海道・新潟・茨城を含み、わたしたち「生活学校」編集グループとともに百数十人検挙投獄される活動の東北での開始である。

十三日は九時から子供会、松永君の作った紙芝居「ジャンバルジャン」「金時計」(ソ連のパンテレーフの童話)と「人生案内」をやる。この日夜半まで研究会。十四日六時のラジオ体操の会。子どもが八百人も来たので二組に分けて紙芝居を見せた後、盛町に向かう。曲がりくねった大船渡を通って六時間。大船渡港の遠望が美しい。

盛町では、一昨年なくなるまで五十年近く苦楽を分かち合うことになる柏崎栄君や、戦後には億万長者になって巾をきかせている石橋勝治君等に会う。十五日朝はラジオ体操、紙芝居。九時から、かけつけてくれた小川実也老を加えて三人で講演。午後、座談討論会ののち水沢へ。

水沢は徳川後期の民主主義者の高野長英や大正時代の東京市長当時にはじめてソ連の代表と会って日ソ国交の口火をつけた後藤新平、つい半年前の二・二六事件で軍部に暗殺された内大臣斎藤実など民主的な文化人や政治家が大勢出ているだけに岩手の民主運動の中心になっている。

「今長英」永井庄蔵の家は高野長英の生家の隣で今高野医院を開いている長英の曽孫より永井君の方が長英らしい。永井君とは今でもつき合っていて、「おやこ新聞」を近くの校長や教頭に読ませたり、わたしを三回も呼んで水沢子どもを守る会で講演会を開いてくれる。

戦後わたしの雑誌の読者だった友だちはほとんど校長になったのに、永井君はどうしても校長になろうとしない。釜石市の教育長になった親友が、おれの町へ来て校長をやれといってすすめても、「お前のところへ行ったって、校長になればウソをつかなくてはならんからいやだ」といって、ついに平教員で退職、子どもを守る会の新聞を百数十回ガリ版刷りで発行して、県や市の教育を批判し、市議会が開かれるたびに、市民連名の請願書を出している。ちゃんと正式の形を整えた請願書というものは議会は必ず議題としなくてはならないので、永井君の主張は一ヶ月おきに市長や議員を考えさせ、傍聴や公報で市民に知らされることになっている。

徳川幕府の末に近い天保時代に、日本最高級の画家の渡辺崋山らとともに欧米の文化を研究して、「夢物語」という幕政批判の本を著し、幕吏(ばくり=幕府の役人)の追求を逃れて諸国を走りついに自殺した高野長英の遺志は、長英記念館の塀をこえて永井君の家にとびこんで来たようだ。

水沢の会には、「生活学校」の顧問になった元東大当時法政大学教授の城戸幡太郎先生が手弁当で来て下さったので、岩手県の活動的な教師たちが続々集まって来た。

木戸先生は、この年ファシズム反対の教授グループの一人として検挙された弟さんをもち、封建主義と軍国主義をはげしく憎む教育学者で、さまざまな教育運動を統合する教育科学研究所の会長であるが、現場の教師に学ぼうとして来てくれたのであった。
(つづく)