Vol.73 掲載 1986.4
札幌時計台の非礼
 戸塚 廉 掛川市家代
人生案内の紙芝居
青森で青函連絡船に乗ると、先の汽車で来た内田村生まれ掛中出身の水野静雄さんが乗っていた。野村先生はすでに一等船室で寝ているという。講師は一等、招待客は二等だが、はじめて乗るこんなでかい船は何もがビックリするほど立派であった。船といえば、弁天島の掛中水泳部で最小のサッパ舟は漕いだことがあり、最大のものでも中学の修学旅行で近江八景の石山寺から大津までの観客船に乗っただけだった。

函館から札幌までの汽車からの眺めは、啄木に似た短歌や詩をたくさん作っている水野さんはもとより、同じような文学教師の池田君や国分君やわたしにも心を湧き立たせるものであった。

北海道の綴方教師たちと同じ宿で熱っぽく話し、ニシンの燻製でサッポロビールをあおった三日間は、きびしい政治体制に抵抗する仲間であるだけにその感動は深いものであった。

野村先生の三日間の講演の間に四人のお客さんは十五分ずつ自分の教育実践を発表した。わたしはこの時はじめて一千人近いおとなに向かって、その喜びと恐れのようなものに緊張した。

昼休みに札幌中学の広場で「生活学校」で売り出していたソビエト映画「人生案内」の紙芝居を国分君がズーズー弁で実演、その主題歌の浮浪児の歌をわたしが歌って大喝采を博した。

三日目の夜は、有名な時計台のある会館で野村先生を中心とした懇談会が開かれたが、わたしと国分君は夜行列車で東北めぐりに出発しなくてはならなかった。

野村先生は、わたしがもらって九月から発行する雑誌には、「生活学校」という名を使ってほしくないと言っていた。この名は野村先生が作ったものだが、その「生活」ということばの意味について、前の年の八月号掲載の小川実也先生の巻頭言以来大論争が起き、エスカレートして、小川・野村の感情的な対立のような形にさえなり、さらに、増田、北村などの旧左翼教育運動の理論家も参加して八月号までつづいても解決しなかった。

野村先生にしてみれば、そのような根本問題が一致しないままで、自分の作った名が、そのまま、意見のちがう人々に使われつづけることはガマンがならない。まことにもっともであり、その考えは立派である。

しかし、一方、もしこの誌名を変えた場合、それまでの読者が急に減ってしまうのではないか。野村先生のような、日本一流の教育指導者が去り、戸塚という無名のものが作り、誌名も変わったら購読をやめるのにはちょうどいい機会である。

わたしを助けて来た旧左翼の理論家たちはそれを心配して、どうしても野村先生にお願いして誌名をそのまま使わせてもらえとわたしに要求する。非合法の運動を命がけでつらぬいて来た現代の勇者たちとしては、何とも情けない要求である。野村先生を説得する自信は全くなく、言い出しかねてついに札幌まで問題をもち越して来たが、これで東京へ帰れば先生は千葉県の市川の学校に行ってしまう。

わたしは時計台の下の会場で教師たちと話している野村先生に、先に帰ることを告げながら、「やはり『生活学校』という名を使わせていただきます」と一方的に宣言し、先生はただ「そう」と言われた。

何という卑怯、何という傲慢、何という非礼であろう。

わたしは身のちぢむ思いで先生に一礼し、集まっていた北海道の教師たちに挨拶することも出来ずに、逃げるように汽車に乗った。汽車と連絡船では国分君とそのことばかりを話した。国分君とわたしは、野村先生に一番かわいがられた心の弟子であると自負していたのに。

「やむおえんなあ」と国分君は嘆息するように言った。中国侵略の戦争へつき進んでいる軍と政府に対して国民の抵抗戦線を作るためには恩人ともたたかわなくてはならなかったのだ。
(つづく)