Vol.72 掲載 1986.3
北行の汽車で
 戸塚 廉 掛川市家代
写真はその頃の国分一太郎君
北海道と東北四県への旅は、わたしにとって大きな喜びであった。中学校時代の修学旅行と児童の村の卒業旅行で日光に行っただけで、北国には全く行ったことはない。それなのに、「生活学校」の読者の半分近くがこの地方に居る。

その各県の読者の中心になっている人たちは、野村先生を強く尊敬している人々なのにかかわらず、先生と左翼の教育運動の指導者との論争をのせつづけているわたしの編集に強い支持の手紙をくれている。

どうやら彼らも、わたしと同じように、教育労働者の社会運動でクビになった山形県の村山俊太郎君と志を同じくしているらしい。しかし、彼等のような理解者は各県に三人か四人で、他の二百人くらいの人たちは、野村先生の名声や著書にあこがれて読者になった人たちで、どこの馬の骨ともわからないわたしが出す雑誌を、はたして読みつづけてくれるかどうかわからない。

何とかして、この人たちと会って話し合いたい。さいわいなことに、秋田県の今浦湾の学校の教師の鈴木正之君が、町の文化協会に話して、町民の夏期講座でわたしに話しをさせてくれることになった。

そこでわたしは、秋田、山形、岩手、宮城の四県の指導的な読者に手紙を書いて。交通費として五円くれて、どこかタダで泊める所を用意してくれれば編集仲間の者三人が出かけて行って、講演したり子ども会をし紙芝居や童話をきかせようと提案し、秋田で二が所、山形で二か所、岩手で三か所、宮城でも二か所サークル集会を開くことになった。思いの外の大歓迎である。

東京帝大と法政大学び教授をしていた城戸幡太郎先生は、そういう会ならどこか一か所に参加して教師たちから学びたいから、旅費も宿泊代も自費で行こうと言って下さったので、それでは岩手の水沢の会に出ていただこうということになり、この全体の巡回計画は出発直前に出来た「生活学校」の八月号に発表された。

出発の前日に国分一太郎君が山形からわたしの家にやって来て泊まり、二人で岩波書店で城戸先生に会う。二人は常磐線の夜行で上野駅をたち、仙台の一つ手前の駅で下車して、宮城県の作文教師の総大将の鈴木道太君を見舞った。

彼も国分君も左翼の教育運動の前科者だがクビにはならず、鈴木君はその後結核にかかって療養中であった。わたしたちの静岡の運動では、ただ組織に名前をつらねただけの女教師までクビになったのに、東北地方の教育当局は温情的なのか、こんなしっかり者でもクビにしなかったのかと感心した。

鈴木君と別れて仙台から東北本線に乗って、ちょうど新潟の池田和夫君がその急行列車に乗っていた。長い長い東北の大地をずぎ、青森県に入ってある駅につくと、妙な声が聞こえて来た。

「ベント ベントー。ウマクナーイ ウマクナーイ」というのである。

東北の人は正直だと聞いたが、「弁当、うまくない」とは驚くべき正直者だとあきれていたら、
「ここは沼宮内(ぬくまない)という駅なんだよ。」と国分君が教えてくれた。

「山形県の駅ではね、汽車がとまると、“オチルカタガ シンデカラ オノリ クダサイ”というんだよ。下りることをオチルと発音するし、すんでからというのを、しんでからと言ってしまうんだ。東北のズーズー弁は『し』を『す』と言うといって笑われるので、気をつけすぎて『す』を『し』と言ってしまうんだ」と言って国分君は笑った。
(つづく)