Vol.71 掲載 1986.2
児童の村なくなる
 戸塚 廉 掛川市家代
児童の村小学校。右方の二階建てが教室、左方の平屋が講堂、まん中の木は学校の象徴の椎の木。
非合法教育運動の仲間たちが戒厳令下に危険な集合を持ったのが昭和十一年(1936年)の四月、それから三ヶ月たった七月に児童の村小学校は彗星のように、その輝かしく美しい短い生涯を閉じた。創立の大正十三年(1924年)から満十二年である。

この学校は絶対に大きくしないというのが、創立者の方針であった。全校生徒五十人というのである。子どもたちは教師を選ぶことが出来た。野村先生の学級でも、小林先生の教室がおもしろいと思えば、隣の教室へ行って勉強してもいい。教室で勉強するのがいやになれば、隣の原で穴掘りをしてもいい。校舎の屋根でお弁当をたべてもいい。野村先生が好きだから、二つも年がちがっている姉弟が、同じ教室で同じことを勉強している。そういう学校であった。

運動用具も鉄棒もブランコもない。理科の実験用具もない。子供の本だけは児童の数の十倍くらいはあるが、それでも五百冊では知れたものである。

そんな学校に子どもをよこす人はよほど物好きである。大正自由主義の時代だから、はじめは芸術家や文化人がおもしろがって入学させたが、自由が弾圧され軍国調になって来た昭和十年に近づくと、児童数が少なくて困った。

金に縁のない自由だけがとりえの無欲な校長は、授業料の他に金を作ってはくれない。だから私は給料六十円でクビになったのに、児童の村の給料は野村先生の原稿代筆と、二つの家庭教師の謝礼を加えて三十円しか入らなかった。「生活学校」からは、もちろん給料は一文ももらえない。


   分裂をくり返す

おまけに、校長が完全自由人だったから、創立の時も自分が姫路師範の校長時代の教え子で有名な教育家がいるのに、児童の村には理想の教師だけを集めるといって教え子は一人もとらなかった。

そのため校長の教え子の教育家たちが、野村主事を追い出して児童の村をわがものにしようと、紛争と分裂をくり返して来た。二・二六事件の前あたりから、最後の乗取り謀略が火の手をさかんにし地主から校舎の建っている土地を返せという要求が出た。

野村先生は、校長から学校はもらってあったが土地は借りものである。新たに土地を求め校舎を移転する力はない。あくまでも学校を続けようとすれば、金を出してくれる後継者もあっただろう。一緒にがんばってくれといえば、私をはじめ一くせある教師たちもその気になったであろう。しかし、野村先生にその気はなかった。

先生に気力を失わせた者は、野村先生から最も多くの恩をこうむった私であった。私はすでに「生活学校」がはじまる前から、私立小学校そのものに疑問をもっていて、学校を解散すべきであると野村先生にせまったことがあった。

桜木村の学校で、青年や村の農民たちと力を合わせて喜びにみちた教育を進めた私は、地域(村)という社会がものすごく強い大事な教育力をもっているものであって、その村という社会がもっている教育力と統一した教育でなくては、本物ではないと信じていた。しかし、児童の村の子どもは東京にバラバラに住んでいて、地域というものがない。

野村先生は十二年間の児童の村生活の中で、やはり私の考えたことを強く感じていたそうである。それで、この際こんな重い荷物、世界にも有名だけれど問題の多い児童の村は解散してしまって、身軽になって新しい出発をする気になったようである。

七月二十日に解散式をすますと、野村先生は札幌で開かれる綴方教育の研究会の講師、私と、小笠郡内田村出身の水野静雄さんと、山形の国分一太郎君、新潟の池田和夫君が、この集会のお客さんとして招かれた。「生活学校」は札幌から帰ってから、私がもらって発行をつづけることになった。
(つづく)