Vol.70 掲載 1986.1
二・二六事件前後
 戸塚 廉 掛川市家代
赤坂の幸楽の前に集まった市民
「生活学校」ははじめ野村先生を尊敬する教師二百人あまりの読者であったが、一年後には五百人くらいになっただろう。五百人ではもちろん赤字だが、児童の村の実質上の後援会長のような須藤紋一が小さな印刷会社の経営者で、はじめから赤字を覚悟で引き受けたものだし、その妹が私の妻となったのだから、絶対安全といってよかった。

それに、国分一太郎、鈴木道太など天下に有名な綴方教師の大物が、それぞれ県の作文サークルを作っていて、つぎつぎと読者をふやしてくれた。

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十一年(1936年)二月二十六日、陸軍青年将校兵が千四百人を指揮、国会、首相官邸、陸軍省、参謀本部、NHKなどを占領し、大蔵大臣高橋是清、内大臣斎藤実、陸軍教育総監渡辺錠太郎を殺し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせ、首相岡田啓介とまちがえて官邸にいた首相の叔父を殺したいわゆる二・二六事件が起こった。

その日は児童の村では昨夜来の大雪で、子どもたちと授業なんかほったらかして雪合戦で午前中を遊びまわったが。職員室にいた野村先生の話ではラジオがおかしなことを言っているという。

はじめは高橋らの重臣たちが「負傷」したという放送だったが、次にそれが「重傷」に変わり、さらに「死亡」となったという。アナウンサーの声も何かいつもと変わって、おびえているような調子だという。

昼食もそこそこに若い教師たちはとび出した。池袋から電車で渋谷に行き、青山墓地に沿った道を赤坂の方へ歩いて行くと、道のわきの墓地の中に目をギョロギョロさせた兵隊が、剣つき鉄砲をかまえて、二メートルおきくらいに尻をおろしている。

赤坂の幸楽という東京一の中華料理店とその隣のホテルを遠まきにして市民数千人が集まっており、幸楽とホテルにはサイドカーで来た陸軍将校が入って行く。首謀者がいるらしい。

天皇の命令が下った、今からでもおそくはない、ただちに原隊へ帰れと、叛乱軍にすすめるラジオのラウドスピーカーが鳴りひびき、空にはアドバルーンが数本の叛乱軍によびかける大文字がゆれていた。下士官に指揮された三十人、四十人の帰順部隊が原隊に帰って行く。中には頭に血のにじんだ包帯を巻いているのもみえた。

ファッショ(※1)の思想家北一輝の影響で、資本家中心の内閣が社会不安の原因であるとして、陸軍による軍政を実現し、貧窮農民を救い、中国侵略によって日本の繁栄をはかろうとするのが青年将校たちのねらいであったが、海軍も、政界も財界もクーデター(右翼革命)に反対だったため陸軍首脳も青年将校の要求をけり、天皇に対して叛乱をおこしたものとして、首謀者や北一輝を死刑にし、将校らを罰した。

二・二六事件の将校たちの本当のねらいは、軍部独裁の軍政を敷くことによって、大正から昭和一ケタ代に燃え上がった共産党や社会党の運動を根絶することにあった。

社会党の左派は大山郁夫らの労農党になったが、その力はなくなり、共産党は三・一五、四・一六の大弾圧、さらに昭和八年の弾圧で消し去られたように見えても、なお、私たちの「生活学校」のような形で、いわゆる人民戦線運動がいろいろと残っていた。

昭和十年(1935年)後半以来、私のまわりにゾロゾロと集まって来た旧同志たちは、「生活学校」をはげまし、私が計画したはじめての単行本、現代教育機構解説双書の第一巻として小川実也先生の「地域中心としての学校施設」の出来たのを祝うために、二・二六事件の戒厳令下に、三十人も集まって出版記念会をおこなった。これが知れたら、私はただちに憲兵隊につかまり、殺されたかもしれない。
(つづく)
※1 権力で労働者階級を押さえこみ、外国に対しては軍を強化し侵略政策を行う独裁者とその制度。