Vol.69 掲載 1985.12
社会を発見する運動へ
 戸塚 廉 掛川市家代
裁判所から刑務所へ帰ってくる容疑者
児童の村の主事であり、同校の研究会の機関誌として創刊された「生活学校」の主幹である野村芳兵衛先生が、創刊の昭和十年(1935年)四月号で、教育の目標は理想的な天皇制の国を作ることだという意味の文を書いたので、編集主任の私は驚き失望してしまう。野村先生はあきらかにマルクス主義の思想を基礎にして教育運動をしている人だと信じていたからである。

しかし、先生は私にとって、教育そのものを教え、免許状をとられた私を世界でも有名な自由学校の教師にし、さらに「生活学校」を私の仕事として作ってくれた二重三重の恩人である。この人を傷つけず、しかも全国の教師を啓発する雑誌を作る方法はないか──私は悩みに悩んだ。

そして、そのころチョイチョイ児童の村をのぞいて雑談して行くマルクス主義の社会学者小川実也先生に教わって、柔軟でしかも社会科学的な運動としてまちがいのないものにしようと心に決めた。

まず五月号では、「農繁期の子供」と題する座談会の記録をのせる。小川、野村、牧沢伊平、小林かねよ、村松元、戸塚哲郎と私。野村と小林以外は皆マルキストかアナキスト(牧沢)である。座談会は読者の関心を貧しい農村の子どもへ向けようというねらいである。私は別に「児童保護とその法律」を書いている。貧困児や障害児の保護問題である。

六月号には「学童診療所参観記」でキリスト教関係の聖ルカ病院の仕事を書き、「健康問題を社会的に見る」を書く。社会医療などということばも知らなかった。病気になれば医者にかかるものとしか知らなかった。貧しい子どもはタダでなおし、病気の発生を予防する社会活動のあることを初めて知って驚き感謝し、読者に知らせようというのである。

七月号には非合法の新興教育運動で知った松永健哉が「勉強だけする学校」で学校を批判する。松永は弾圧されずに東大を出て、公立小学校の教師をしていて、小川先生から私が雑誌を作っているのを知って訪ねて来たのである。

八月号に小川先生が書いた「生活学校と労働教育」の問題で、野村先生がはげしい反論を書き、この二人の論争が数回つづいたのちに、非合法運動の仲間がその論争に参加し、翌年の七月の児童の村小学校解散までつづく。「第一期生活教育論争」となる。

なお七月のある日、黒滝きよ子というかわいらしい娘さんのような人がたずねて来て「宿題の価値」という文章を八月号にのせる。神奈川県の非合法教育労働者運動の指導的な幹部の黒滝雷助の妻君で、児童の村の近くで二人で学習塾をやっているという。きよ子は非合法時代には半非合法の無産者託児所の保母をしていたという。

小川、松永、黒滝などの出現で私の気持ちもふたたび左寄りにヨリが戻って来て、九月の「体育をどうする」では青年の進歩的な要求を体育で眠らせる政策を批判したり、本名匿名、無署名の五つくらいの文章を書いている。

十月ころ、児童の村のすぐ近くの家に招かれて行ってみたら、非合法時代に教労(教育労働者組合)の中央幹部として会ったことのある増田貫一と石田宇三郎であった。彼等は私と同じく昭和八年に検挙されて警察、未決、裁判をへて、このころ執行猶予で釈放され、私の仕事を小川先生や黒滝に聞いて、こっそり連絡して来たのであった。

十一月の寒い夜に、小川さんが出獄したばかりのタカクラ・テル(高倉輝)さんをつれて来たことがあった。戦後に長野県から共産党の代議士として活躍した人である。

なお、この年の十月、私は野村先生の媒酌で「生活学校」の経営者の須藤紋一の妹と結婚した。