Vol.68 掲載 1985.11
社会を発見する運動へ
 戸塚 廉 掛川市家代
新興教育運動の活動としての家代の子供クラブ
“一億一心のわが国体”つまり天皇を中心にして一億の国民が心を一つにして国を守ることが教育の理想だという野村芳兵衛先生の考えを、私はどうしても理解することができなかった。それは、野村先生自身がこれまで著書や雑誌に書いて来た首長を否認するものだと思った。

それは、中国を侵略し、アジアを征服しようとしている軍に力を貸し、国民を破滅に導くものであるとしか思えなかった。そういう思想を「生活学校」の読者に広めることは出来ない。

しかし、考えてみれば、これはこと新しい問題ではなかった。もともと私が静岡の山の上の学校や掛川周辺の郡の教師や農民を相手におこなった運動は、天皇中心の軍国主義教育とのたたかいであった。“生活学校”の編集方針も、野村先生をはじめ児童の村の教師全体が言わず語らずの中にそれを承認していたはずであるし、創刊以来そういうつもりで作って来た。野村先生が変節して天皇中心主義になったからといって遠慮することはない。

そのころの教師は、一般的に社会について科学的に考えないように飼いならされていた。社会を科学的に見れば大金持ちが天皇を利用して政府を作り、勤労者の作り出した富の大部分をわがものにしていることがわかる。良心的な教師は、この真実を子どもに教えることになる。それが広まれば、金持ちの支配は危うくなる。

だから、“生活学校”ははじめから社会を知り社会の作り出した文化を大事にするように作って来た。これをもっと強化することによって、野村先生の裏切りに対抗しよう。私はそう思った。

児童の村小学校に、時々颯然とやってくるお客さんがいた。小川実也という社会学者で、非合法雑誌の“新興教育”にも小川亜村の名で書いていた人である。話してみると、明治大正の社会事業家として有名な留岡幸助翁の家庭学校という犯罪少年の教育施設で働いたこともあり、社会福祉運動全体に広い知識をもっていた。私はこの人を編集の顧問にすることにした。

私は“生活学校”の創刊号に「児童保護とその法律」という文章を書くために、生まれてはじめて六法全書というものを開いて、私がいかに社会に無智であるかを思い知らされた。

子どものことなど全く考えない保守反動のひどい国と思っていたのに、少年法、少年救護法、健康保険法、急護法、急護法施行令、児童虐待防止法などの法令には、当時の一般の学校教師には考え及ばぬ、心のこもった児童への愛情と保護の精神が感じられ、私は恥ずかしくなった。

いくらかは社会を知り、子どものために牢獄も辞せぬ覚悟でたたかったつもりの私でさえ、国家がこれだけの保障を子どもに与えていることを知らなかった。

もとより、これは日本の支配階級が情深く良心的で自己犠牲に富んでいたというわけではない。地球人類の中に支配する者と支配されるものの階級が生まれてから数千年、日本では古墳時代のはじめから約千七百年の間に、貴族の支配に対して奴隷や商人庶民が資本家階級の支配に対して労働者農民、一般市民がたたかいとって来た成果であり、世界的に承認されている人間の権利である。

これこそ社会オンチの教師にたたき込み、教師をとおして子どもと子どもの属する日本の社会を変革するエネルギーとしなくてはならない。それこそが野村芳兵衛をのるこえる道であり、野村先生への恩返しだと思った。
(つづく)