Vol.67 掲載 1985.10
眠られぬ夜
 戸塚 廉 掛川市家代
昭和九年(1934年)十二月末、三百部たらずの雑誌「生活学校」創刊号の発送を終えると、冬休みを利用して東京の文化を求めて上京する読者を迎えて話し二十八日まですごした私は、静岡で待っている人たちにあげる雑誌と次号作りの資料を抱えて帰省した。

逃げるようにして掛川駅をたってから一年五ヶ月、収入は二つの内職まで含めても桜木北小学校時代の給料の半分にも足りないが、世界の民主教育の研究者や運動者に知られている学校の講師となり、その学校の教育で日本の教育を変えようとする機関雑誌の一切をまかされた実際上の編集長である。

姿こそは“故郷に錦を飾る”とは見えないだろうが心に錦を飾ることの可能な仕事の門出である。家族や、共に苦労した運動の同志──教師や農民諸君は喜んでくれるに違いない。教壇から引きさかれた「いたずら教室」の子どもたちも、東京のみやげ話しを待っていてくれるだろう。

十日までに、みんなと話しながら編集し終わるつもりで持って行った資料は全然手につかず、夜までやってくるお客で全く仕事にならないで、悲鳴をあげて五日には東京へ逃げて帰った。

雑誌は、それまで別々の運動であった教育運動と児童文化運動を統一するものだとして各方面から高く評価された。桜木の子どもが学校や私の家で行った子どもや青年の読書活動や子供クラブの運動は、村山俊太郎、国分一太郎、鈴木道夫、佐々木昴等、そのころすでに日本一の教師として評判になっていた諸君から「作文運動はやって来たが、そういうことはしなかった」と驚嘆の手紙が来、学校の内外に読者を作ってくれた。

しかし、第四号、昭和10年(1935年)四月号の巻頭言として編集主幹の野村芳兵衛先生の書いた文章を読んだ私は、頭を強打されたように感じた。野村先生は、日本の教育の最高の理想は天皇を中心として一億の国民がこの国体を守ることだという意味のことを書いているではないか。

昭和四年(1929年)にはじめて野村先生をたずねた時、先生は「天皇はデクノボーですよ」と言った。昭和六年に書いた「生活訓練と道徳教育」という本は修身教育の本なのに「天皇陛下」という字は一所しか書いていなかった。しかも、その本の底を流れている思想はあきらかにマルキシズムであった。

それにもかかわらず、この四月号の文章は、満州と上海を侵略して戦争をまき起こし、民主主義を守ろうとした犬養首相を殺し、国民の代表の政党から内閣を奪って戦争を大陸に広げようとたくらんでいる軍部の主張とまったく同じではないか。

私の尊敬してやまなかった偉大な教師・野村芳兵衛も、ついに軍部に屈服してしまったのか。野村芳兵衛が変節することはたいしたことではない。しかし、野村の雑誌「生活学校」は、今や日本の最高の民主主義教師五百人に読まれている。読者はもんな、私と同じように野村先生をわが師として傾倒しているし、それぞれ自分の学校まわりの教師たちに影響を及ぼしている人たちである。

私を救って、その大事な仕事をまかせてくれている恩人を傷つけることなく、この雑誌から変節した野村芳兵衛の影響をたち切るためにはどうしたらいいのか。私には眠れない夜がつづいた。
(つづく)