Vol.66 掲載 1985.9
四っの縁談
 戸塚 廉 掛川市家代
昭和10年夏の須藤夫妻の在京縁者の勢ぞろい。(後列左から2人目が紋一、その左が筆者、A子はいない。)
固い話がつづいたので、ここで、若い私の前にあらわれた四人の女性について書こう。

私は中学一年から師範学校卒業までの六年間、あまり勉強をしないで小説ばかり読んでいたので恋愛とか結婚を扱った小説は何百も読んでいたが、きびしい明治の政治家の祖父、明治・大正の地方文化人の父、そして大正の人道主義文学に凝って中学を落第した叔父から、それぞれに深い影響を受けている私は適当な固さと適当なやわらかさを心の中にもっていたように思う。

昭和五年(1930年)に母を失うと、どうしても妻を迎えてくれといわれて、牧沢伊平さんと相談して、この人ならと思う女教師と、そんな気持ちで浜松で開かれた関谷敏子の独唄会に行ったり、その人の住む遠州灘の村を訪ねて話し合ったこともあった。

教養の深い静かな整った顔のその人は、次第に私に対する感情の深まることを悲しむ手紙をよこし、「しかし私には病気がありますから」と書いていたが、三ヶ月だけのつき合いで結核のために死んだ。病床にあることも知らせて来なかった。

その間私は「耕作者事件」で掛川署に一日泊められ、長野県木崎湖の信州夏季大学で、「老子」の講義を開き、白馬山に登り、家代の消防隊の百人の隊長にされ、雨桜村の山の学校にとばされ、八月にはじまった非合法の新興教育運動に参加するハラをきめていた。

運動の足手まといになる妻を迎える気はなかった。それに、まだ四十三才の父にこそ後添いを迎えてもらうべきだと気がついた。非合法運動をやればクビになることは明かだ、そんな時父の世話を見てくれる人が必要だ。親不孝を重ねた私のたった一つの親孝行になった。

昭和九年(1934年)九月、アイオン台風が大阪湾に上陸した日は、東京の児童の村の小さな二階の教室でも、六年生と顔色を変えるほどの風雨であった。夜はそんな嵐なんか忘れてしまったようなお月さまが出た。教え子の須藤宏子・出穂姉弟の家には、近くに住む親戚や知人十人あまりが集まってお月見をした。

須藤紋一は児童の村をつぶさない会の会長格で赤字の印刷会社の社長、赤字にきまっている雑誌だからと「生活学校」の経営を引き受けた。私はその一家が住んでいた家を引きついで住んでいた。

須藤の妹のA子というのが岡山から遊びに来ていた。嵐のあとの月光の下で、彼女は私の知っているどの女性(にょしょう)よりも美しくみえた。

いつものように垣根ごしに須藤姉弟を呼べば、きっとあの人が顔を出すだろう──私のドキドキする期待は報いられた。彼女でなくて出穂なんかが顔を出すと、「チクショウ、早く出かければいいのに」と思った。五日くらいすると、彼女は岡山へ帰った。

しばらくして、私は牧沢伊平さんにすすめられて、私の静岡の運動に参加してクビになり上京していたKさんと、結婚を予想して時折会っていた。Kさんの親元では私の前途を危んで強烈に反対したが、Kさんは何としても結婚すると決意を固めているようであった。私もこの人ならいいと思ったが、強い反対を解く自信はなかった。

もう一人、T さんの親が私の父にゼヒTをもらってほしいと頼んで来たようだが、TさんはKさんのことを知っているためか、私には何の話しもなかった。

雑誌「生活学校」の創刊号の印刷がはじまったころ、児童の村の彫刻家の長谷川豊雄さんから「A子さんをもらってくれぬか」という須藤夫人からの懇請が伝えられた。私は喜んでこれを受け、Kさんには、牧沢さんを通して深くおわびをした。